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先日、知人が急に具合が悪くなり、北海道江別市にある病院に入院しました。江別市は、伴侶が昔、住んでいた家があった場所です。江別市には、石狩川に合流する夕張川、千歳川、豊平川などの河川があり、大事な水の場所だと分かっていました。過去において江別市について《野幌森林公園の地を封印する役割としての江別キリスト村記念碑》などでワークを行っていました。

 

また、江別市には、北海道遺産になっている「江別のれんが」があります。煉瓦(れんが)作りには「火」を使います。「火」を使って煉瓦を作ることは、裏で「松取り(松果体収穫)」が行われて来た客観的な証となります。河川のある水の地という光を封印するために、煉瓦作りの火が置かれたと感じています。今回、知人の入院をきっかけに、医療機関と煉瓦工場を主に江別市のワークを行うことにしました。

 

まず、知人が入院した病院をネットとグーグルマップで調べました。知人が入院した病院は、1940年代に江別市に診療所を開設したことから始まった歴史ある病院でした。その病院の院長に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」と伴侶が伝えて来ました。ワニがいることは「松取り」が関係していることを示唆しています。病院棟にも闇の解除を意図して光を降ろしました。

 

「院長の一族は松取りに貢献して土地を所有した」と伝えられました。私は工作員の可能性を感じました。幕末維新以降の日本での松取りは、戦地、難民キャンプ、医療施設になっています。現在は、その殆どが医療施設や福祉施設だと感じています。江別市で一番大きな医療施設だと思われる「江別市立病院」を選びました。江別市立病院は、北海道江別市にある病院(市区町村立病院)です。

 

1951(昭和26)に、国立札幌病院(現在の国立病院機構北海道がんセンター)の診療所を江別町へ移管したことに伴い、「江別町立病院」として開院しました。1952(昭和27)に、国民健康保険事業の直営診療病院となり、1954(昭和29)に市制施行に伴い「市立江別国民健康保険病院」と改称しました。江別市立病院は、タレントの大泉洋が生まれた病院です。

 

江別市立病院の院長と病院棟に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」「闇」と伝えられました。国立病院機構北海道がんセンターの診療所として置かれたことを考慮しても、古くから松取りが行われて来たと感じます。江別のれんがは、北海道江別市で生産されている煉瓦(れんが)で、野幌地区がその中心となってきたため「野幌れんが」としても知られます。

 

江別産の煉瓦は、市内ほか周辺地域の土壌に多く含まれる野幌粘土を原材料としており、褐色及び赤い色が特徴です。鉄道や道路のトンネル・橋などのインフラ、サイロ、学校、民家、駅舎や倉庫建物などに用いられ、北海道の近代化に貢献しました。現在も市内には江別市「歴史的れんが建造物保存活用事業」の一環として、400棟を越える煉瓦造りの建造物が保存されています。

 

尚、江別では現在でも3か所の煉瓦工場が稼働し、国内の20パーセント以上のシェアを占める日本有数の煉瓦生産地となっています。1898年には北海道炭礦鉄道が野幌煉瓦工場を開設して、後に札幌商工会議所会頭を務める久保兵太郎(作家久保栄の父)が経営者となります。以降、煉瓦工場の進出が相次いだ江別は、一躍煉瓦の町として栄えることとなりました。

 

「江別のれんが」のワーク対象として「旧ヒダ工場」と「米沢煉瓦」をピックアップしました。旧ヒダ工場は、1998(平成10)に自主廃業した窯業会社「株式会社ヒダ」の工場跡です。当時は、江別市内に残されていた古くからある窯業工場の1つでした。米沢煉瓦は、1939(昭和14)に設立した煉瓦製造会社です。旧ヒダ工場、米沢煉瓦のトップと工場に闇の解除を意図して光を降ろしました。

 

「入りました」「松喰い」「昔やっていた」と伝えられました。「江別のれんが」のウィキペディアには、『江別市内で現在稼動している工場は、米沢煉瓦(昭和144月操業)、丸二北海煉瓦(大正104月操業) 、昭和窯業(昭和15年操業)3社です。最盛期は昭和25年の15社で、明治24年から延べ30社存在した』とあります。江別の地がいかに松取りの闇に覆われていたのかが分かります。(つづく)