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煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料です。通常は赤茶色で直方体をしています。焼成レンガは原料中の鉄分量および焼成時の酸素量によって色が変わります。日本においては一般的な製法を用いた場合、赤褐色となり、耐火レンガは炉材にも使われます。煉瓦が建築材料として使用されるようになったのはメソポタミア文明の時代からです。

 

チグリス川、ユーフラテス川にわたる広大な範囲で煉瓦建築が発展していきました。紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていました。紀元前3000年頃からは、焼成煉瓦が使用され始め、この頃には大型の建造物の外壁の仕上げに焼成煉瓦が使われています。《煉瓦の歴史について》によると、国産初の赤レンガは長崎が起源となります。

 

1857(安政4)に起工された長崎飽ノ浦鎔鉄所建設のためにオランダ人海軍機関将校ハー・ハルデスの指示で地元の瓦屋が焼きました。この長崎鎔鉄所はわが国初の西洋式の工場建築で、れんが造の外壁や洋風トラス(屋根の小屋組を構成する三角形の骨組)の導入など近代建築史上に残る著名な建築です。北海道は明治維新後になって本格的に人の手が入った新世界です。

 

1872(明治5)に開拓使によって函館湾岸に茂辺地煉瓦化石製造所を開設しました。ウィキペディアには、「日本で最初期に造られた煉瓦建築は幕末の反射炉である」と記されています。反射炉は、私の過去世と深く関わっているので、煉瓦と結びついたと感じます。オランダ人海軍機関将校ハー・ハルデス(ヘンドリック・ハルデス1815-1871)の御魂が上がるよう光を降ろしました。

 

「ロスチャ」と伴侶が伝えて来ました。国産の煉瓦作りを指揮したのは、やはりロスチャイルドの工作員でした。長崎製鉄所は、江戸時代末期(幕末)に作られた製鉄と船舶の修理・建造を行う工場です。1861年の創設時は「長崎鎔鉄所」という名でした。1863年、神戸に海軍操練所造艦局が新設され、長崎製鉄所はその所属となりました。明治維新後、長崎造船所と改称しました。

 

その後、岩崎弥太郎に払い下げられて、三菱重工業長崎造船所へと発展しました。グーグルマップで長崎製鉄所跡を探すと、住所は長崎県長崎市飽の浦町11でした。光を降ろすと「いいです」と伝えられました。長崎に国内初の製鉄所が出来たのは、長崎が水の地であるからです。松取り(松果体収穫)の証拠隠滅のための闇の火は、煉瓦と共に長崎から函館、江別にもたらされたことが分かります。

 

江別市で気になったのが「酪農学園大学」です。酪農学園大学は、1960年に設置された北海道江別市文京台緑町に本部を置く私立大学です。1933年に創設された北海道酪農義塾を起源とします。創立者は、日本の酪農業の発展と北海道の開発に貢献し「日本酪農の父」や「北海道開拓の父」と呼ばれた黒澤酉蔵(とりぞう)です。単独の私立大学のものとしては日本最大のキャンパスを持ちます。

 

キリスト教を建学の理念の一つとしている大学で、福音書の神を愛し、隣人を愛すことを最も重要な教えとするイエス・キリストの言葉に「土を愛する」を加えた三愛精神を掲げています。また、酪農学園大学のもうひとつの建学の精神、健やかな大地が健康な人々を育む「健土健民」の理念は、このキリスト教的なふたつの精神に、「土を愛する」生き方を融合させたこの大学の特質を明瞭に表しています。

 

松取りの起源は、原始キリスト教です。原始キリスト教の松取りの闇は、仏教や神道など全ての宗教に引継がれています。現代のキリスト教の裏にも松取りの闇があります。黒澤酉蔵(1885-1982)は、茨城県出身の実業家、酪農家、政治家、教育者、環境運動家です。衆議院議員で北海道製酪販売組合連合会(現・雪印メグミルク)の設立者です。

 

1909(明治42)に日本メソジスト札幌教会で杉原成義牧師より受洗しました。酪農学園大学の設立者・黒澤酉蔵の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「黒い人。松喰い。指名されてやっていた」と伴侶が伝えて来ました。現学長・堂地修とキャンパスに闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金。エゴ。支配」「地下に入りました」と伝えられました。

 

酪農学園大学は、札幌市の大事な光の場所である「野幌森林公園」の北側の端に位置しています。野幌森林公園の自然の光を封じるために裏の松取りの闇として置かれたのだと感じます。江別市の地は、開拓時代には屯田兵村もあり、屯田兵制度によっても暗闇にされて来たことが過去のワークで分かっています。北海道江別の地が本来の光の地に戻ることを願っています。(おわり)