1200px-洗足池01


7
23日、右脇下の辺りに軽い痛みと違和感がありました。ワークの場所を教えてくれるサインでした。右側の脇の下の場所の知らせは、初めてなので、具体的な場所の見当をつけるのは難しいと思いました。右腕が房総半島なので、東京か神奈川の辺りでした。グーグルマップで細かくみていくと「東京都大田区」だと感じました。大田区は、東京都の区部南部に位置する特別区です。

 

前身は大森区と蒲田区であり、区の名称は前身の2区から1文字ずつ取られました。区の政治・経済は蒲田に一極集中しています。住宅都市であると同時に臨海部は京浜工業地帯に含まれる工業都市でもあり、町工場が集積する日本を代表をする「中小企業の街」です。繁華街・歓楽街の蒲田や、臨海部の羽田空港、日本屈指の高級住宅街としての田園調布が区西部に位置しています。

 

大田区のウィキペディアを読んでいくと「古墳時代、荏原台(えばらだい)古墳群が多摩川流域沿いにあり、強大な首長がいたと思われる」と記されており、「荏原台古墳群」が気になりました。荏原台古墳群は、東京都にある古墳群で、田園調布古墳群と野毛古墳群の総称です。荏原台古墳群は、多摩川下流左岸の世田谷区野毛周辺から大田区田園調布に広がる古墳群で50基あまりの古墳から成ります。

 

同古墳群は地域的に考えて无邪志国造(むざしこくぞう)本宗の墳墓と見る説があります。多摩川沿いの荏原台古墳群に光を降ろすと「裂け目がある。黄色い光が出る所」と伴侶が伝えて来ました。黄色の光とは、隠す闇のエネルギーと感じます。これまでのワークから古墳は、松取り(松果体収穫)の場所だったと感じています。神社や寺院が出来る前の松取りの闇が隠された場所です。

 

古墳は、エジプトのピラミッドと同様に墓所と見せかけた松取りのための工作です。多摩川沿いに50基もの古墳があるのは、川の水という光を松取りの闇で封印するためです。もう1つ気になったのが「洗足池(せんぞくいけ)」です。洗足池は、東京都大田区南千束に存在する池です。湧水池であり、流れ込む川はないですが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあります。

 

多くの湧水は、用水路を通して洗足池に流れ込んでいました。洗足池の主要水源となる湧水は4か所あったとされ、現在は「清水窪弁財天」の湧水が残っています。大田区の公式サイトの《湧水のみどころ》には、『大田区は、武蔵野台地のすそに位置し、古来から数多くの湧水がありました。それは生活と密着したものでした。 今でも区内の各所で湧水が観測されています』と記載されています。

 

「清水窪弁財天」の他に、「田園調布せせらぎ公園」「旧六郷用水脇」「旧六郷用水沿い洗い場跡」「水神公園」などの湧水が紹介されています。洗足池周辺の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られます。由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、千束の稲が貢租()から免除されていたとする説があります。

 

また、「大池」(洗足池の別称)を水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などもあります。のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となりました。日蓮が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残っています。

 

「袈裟掛けの松」は、日蓮宗の寺院・妙福寺にあります。妙福寺は、洗足池の池畔にあった鎌倉時代に創建された「御松庵」という庵に由来します。「御松庵」という名前に「松」がついていることから分かるように、洗足池を封じるために松取りをしていた場所です。グーグルマップを見ると、洗足池の周囲には妙福寺の他に「洗足池弁財天(厳島神社)」と「千束八幡神社」があります。

 

洗足池弁財天は、御祭神・市杵島姫命です。創建の年代は不詳ですが、古来より洗足池の守護神として池の北端の小島に祀られていましたが、長い年月に池中に没してしまっていました。昭和9年に洗足風致協会の手により再建されました。千束八幡神社は、洗足池の西のほとりに鎮座する神社で、品陀和気之命(応神天皇)を祭神とします。「旗挙げ八幡」とも呼ばれます。 

 

860(貞観2)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請されました。10世紀前半の平将門の乱の際に鎮守副将軍として関東へ派遣された藤原忠方は、その後に千束八幡を氏神としてこの地に残り、池上姓を名乗ったといいます。洗足池弁財天と千束八幡神社に光を降ろすと「松取り場所」「松取り場所」と伝えられました。古くから洗足池の光を封じるために裏の松取り場所の寺社が置かれたのです。(つづく)