7月30日、右肩の外側の部分に軽い痛みを覚えました。場所を知らせてくれるサインでした。右手が房総半島に当たりますので、房総半島の付け根の千葉県の辺りだと思いました。ネットやグーグルマップで調べていくと「千葉県旭市(あさひし)」だと感じました。ウィキペディアには、『旭市は、千葉県の北東部に位置する市。基幹産業として近郊農業が盛んであり、千葉県内第1位・全国第5位の農業産出額である。
豊かな自然を生かし、農業や水産業が発展している。一方、千葉県東部から茨城県南東部の約100万人をカバーする、総合病院国保旭中央病院を有する。江戸時代には江戸幕府の天領であった干潟八万石(椿海)を始め、九十九里浜、刑部岬などを有する。古代、現在の旭市周辺には椿海と呼ばれる湖が広がっていた。江戸時代になり、椿海を干拓するため、新川を掘削して湖底を干潟とした。
幕末には、農村指導の先駆者・大原幽学が長部村を訪れ、農村を再興させた。同じく幕末に、国学者の宮負定賢・宮負定雄父子も村の和合や農業改良に努めた』とあります。注目したのが「椿海と呼ばれる湖が広がっていた」という箇所でした。椿海(つばきのうみ)は、九十九里浜の北部、現在の千葉県東庄町・旭市・匝瑳市(そうさし)の境界付近に、江戸時代初期まで存在した湖です。
江戸時代に作成された「下総之国図」(船橋市西図書館所蔵)では、「太田ノ胡水」と表記されています。伝えられるところでは東西3里(約12km)南北1里半(約6km)で約51平方キロメートルの大きさがあったと言われています。《4travel.jp》の記事「昔むかし、椿海(つばきのうみ)が広がっていたあたり、今は野鳥が降り立つ。」には椿海の地図と干拓の歴史が掲載されています。
椿海を干拓する目的としては、『江戸時代になり江戸の町の人口増加により米の増産が要求されるようになったこと、幕府としても米の収穫量が増えれば年貢米の取り立て量が増えること、財産を蓄えてきた江戸の豪商たちが、新田を開発して後、売り出して利益を得ようとした事などから当時、椿海を埋め立てての新田の開発が行われたようです』と記されています。
また、椿海の名前の由来に繋がる伝説もあります。匝瑳市の公式サイトには、『昔々、大きな椿の木があった。その椿の木の樹令は、八十万八十年と言われ、春になって花が咲くと、紅(べに)の花のために、天がまっ赤になり、やがてその花びらが散ると、またそのあたり一面はまっ赤な錦(にしき)をしきつめたようになったと言われている。この老大木が枯れ果てて、残った根の跡がこの椿湖(つばきのみずうみ)だということだ』とあります。
《シリウスの場所を感じさせる能登半島》のワークから「椿」の場所はシリウスのエネルギーであり、水という光の場所に繋がります。椿海は、自然や水のある光の地であり、それを封じるために干拓事業が成されたと感じます。椿海の干拓事業における表向きの目的は、米の増産による金を得るためですが、隠された闇が置かれたと感じます。水の地の大きな光を封じるために金の闇よりも大きな闇を置く必要があります。
秋田県の滝頭湧水地のワークがヒントになります。《左耳の火照りから繋がった男鹿半島の滝の頭湧水と寒風山のワーク》では、江戸時代後期の農業指導者・渡部斧松が、寒風山山麓の滝の頭湧水からの水路建設や新田開発を利用して、秘密裏に松取り(松果体収穫)を行っていたことが分かっています。湧水などの水の地を封じるためには、松取りの闇が置かれるのが常法と成ります。
松取りは、人命を奪うこと、真実を隠すために嘘をついて騙すこと、金儲けを行うことの3つの闇が重なることで深くて大きな闇となります。《明治政府の大久保利通が尽力した松取りのための阿賀野川の安積疏水事業》にありますが、明治時代の阿賀野川の安積疎水事業も秘密裏に松取りが行われて、松取りの闇で光の地を封印して来ました。大規模事業のために多くの人を集めて松を取るのです。
表向きは、干拓、開拓、疎水などの事業ですが、裏で作業員などの人たちなどを殺めて、密かに松取りを行ってきたのです。現在のアドレノクロムが地下経済の主になっているように、松取りは大金を得る金儲けに繋がります。江戸時代には、日本は、世界の松利権を支配するロスチャイルドの草刈り場となっていました。日本は、松取り場となり、松製品の供給地になっていたのです。
そのため、江戸時代の後期から終戦にかけて、日清戦争に始まる戦争の道に突入して、戦争を隠れ蓑にして日本人を犠牲にした松取りをしていきました。北海道開拓も同じです。開拓の名の下に、開墾、開発などの事業の中で、開拓者やアイヌを犠牲にした松取りが行われて来ました。天皇をトップとする支配層による日本人の人命を金に換える深い闇の仕組が構築されて来たのです。(つづく)