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江戸時代の椿海(つばきうみ)の干拓工事は、新川を掘削して湖底を干潟にすることでした。寛文8(1668)に工事が開始され、寛文11(1671)には新田開発が出来るまでになりました。この間の3年間でのべ8万人の人員が工事に動員されたといわれています。延宝2年(1674年)からは1町歩あたり5両で干拓地の売却が開始されました。

 

元禄2(1695)の幕府の検地により、「干潟8万石」18ヶ村(春海・米持・秋田・万力・入野・米込・関戸・万歳・八重穂・夏目・幾世・清瀧・大間手・長尾・高生・琴田・鎌数・新町)が成立しました。表向きの冠婚葬祭に必要となる35寺の建立もされました。《干潟八万石物語》によれば、3社とは、鎌数の伊勢大明神、春海の水神社、高生の八幡宮です。

 

5寺とは、真言宗福寿山海宝寺(琴田)、天台宗新岡山東福寺(万才)、黄檗宗補陀落山福聚寺(小南)、同宗如意山修福寺(春海)、同宗仏日山広徳寺(鎌数)でした。実は、椿海干拓には、神社寺院の関係者も深く関わっていました。黄檗宗(おうばくしゅう:禅宗)の僧侶・鉄牛道機(てつぎゅうどうき)は干拓の申請を幕府首脳へ取次して援助しました。

 

鎌数伊勢大明神の御師(おし)・梅谷左近太夫は、同家に残る記録によると、干拓の申請者である辻内刑部左衛門が生存していた寛文12年以前から、椿新田の御師を望んでおり、辻内刑部左衛門の元の主君である伊勢桑名藩主松平越中守定重を通じて刑部左衛門に懇願しその了承を得ていたとされます。社寺は、椿新田での松取り(松果体収穫)を含む金を目的にしていたのです。

 

西洋医学の医療施設が松取り場所になる以前は、神道、仏教を含む宗教施設が主な松取り場所でした。社寺は村の支配の中心としての闇の役割です。表ではご利益を得るという名目で神仏を崇めさせて村人たちを囲っていました。しかし、その裏では、密かに松取りを行って来たのです。日本に社寺が多いのは、裏で松取りの闇のネットワークを構築するためです。

 

千葉県旭市に深い縁を人物として農村指導の先駆者の「大原幽学(おおはらゆうがく)」と国学者の「宮負定雄(みやおいやすお)」がいます。大原幽学(1797-1858)は、江戸時代後期の農政学者、農民指導者で、下総国香取郡長部(ながべ)村(現在の旭市長部)を拠点に、天保9(1838)に先祖株組合という農業協同組合を世界で初めて創設しました。

 

天保6(1835)に椿海の干拓地の干潟八万石にあった長部村に招かれ農村振興に努力することになりました。幽学は、先祖株組合の創設のほかに、農業技術の指導、耕地整理、質素倹約の奨励、博打の禁止、また子供の教育・しつけのために換え子制度の奨励など、農民生活のあらゆる面を指導しました。宮負定雄(1797-1858)は江戸時代の国学者、農政家です。

 

平田篤胤の国学塾気吹舎に入門し、多くの門人を紹介して下総の平田国学の中心として活躍する一方、農業を中心に民衆に向っての教導に尽力しました。大原幽学、宮負定雄の御魂が上がるよう光を降ろすと「ニビル」「分からない」と伴侶が伝えて来ました。ニビルは、データ収集と金の闇を司る宇宙人です。昔からの社寺の隠された松取りの闇を引継ぐのが医療機関です。

 

旭市の医療機関として「総合病院国保旭中央病院」を選びました。総合病院国保旭中央病院は、千葉県旭市にある医療機関で、地方独立行政法人が運営する公立の病院です。千葉県東総地域における地域医療の核となる基幹病院で、第3次救急指定病院です。一般外来から高度な専門治療を必要とする患者が利用する病院で、一日約3,500名の外来患者が来院します。

 

千葉県や旭市の地域の松利権に直結する政治家である旭市長の明智忠直(1943-3期目)と千葉県知事の熊谷俊人(1978-1期目)に光を降ろすと「金」「浮世離れした宇宙人」と伝えられました。旭市長は、市長に就任するまでの48年間農業を営んで来た人です。旭市は、千葉県内第1位、全国第5位の農業産出額となっています。

 

椿海の干拓の歴史から旭市が農業を通じて金の闇に覆われて来たことが分かります。本来、大事な水の場所という光の地の椿海が金儲けのために干潟にされて、松取りの闇、金の闇を置かれたのです。最後に、椿海があった場所を意図して光を降ろすと「沈む感じがする」と伝えられました。椿海のあった旭市の地が開かれて、本来の光の姿に戻ることを願っています。(おわり)