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旭川市は、北海道北中部(道北地方)に位置し、上川総合振興局に属する市です。上川盆地に広がる振興局所在地であり、札幌市に次ぐ北海道第2位の人口(33万人)を有する中核市です。北海道中央部に位置し、道北の経済、産業、文化の中心都市で、国道や鉄道路線の終起点となり高速道路が整備されているなど道内物流の拠点となっています。

 

旭川市は北海道内最大の盆地となる上川盆地にあり、石狩川、牛朱別川、忠別川、美瑛川などの河川合流部に位置しています。市西部に幌内山地、天塩山地、嵐山丘陵が南北に連なっており、石狩川は幌内山地を侵食して神居古潭渓谷を形成しています。旭川市は、本来、上川盆地の中の水の場所であり、大事な光の地です。しかし、暗闇にするために光が封じられて来た土地です。

 

自然の光である精霊を封じて闇にするために松取り(松果体収穫)が行われてきました。松取りの実働部隊として中心的役割を成したものが「軍隊」です。古くから戦争は松取りのための工作活動でした。アドレノクロムや丸薬としての松製品が出来るまでは、天皇や大名などの権力者に「松(松果体の生血)」を献上するために、純粋な闇としての松取りが行われてきました。しかし、純粋の闇がエゴの闇に変わりました。

 

アドレノクロムや丸薬としての松製品が出来ると保存や輸送が可能となり、金儲けのための松取りに変わって来たのです。「松」をとればとるほど、大金が入ることになります。際限ない松取りが行われて、金に群がる人間たちが集団となりネットワークを形成していきました。松利権ネットワークの暗黒集団は、天皇を頂点としてガードマン・工作部隊としての宗教団体や反社が置かれています。

 

衝撃の日本の黒幕を暴露》には、10年間、皇室のために海外の情報収集しレポート提供をしていた内藤晴輔氏が動画で暴露した隠された闇の情報が載っています。また、《国民の命を金に換える日本の深い闇の仕組の終わり》には、内藤氏の動画と共に国民の命を金に換える闇の仕組について記述しています。内藤情報によると、天皇がトップの暗黒集団には「創価学会」と「稲川会」が深く関与しています。

 

人身売買、アドレノクロム、麻薬による金儲けに関係しているといいます。これがDS(ディープステート)の本丸だと感じています。DSは米国や欧州ではなく、日本を根城としているのです。DSの本質は、闇のエネルギー体です。人間に化けたり、憑依して人間を操って闇の仕事をしてきたトカゲ・レプタリアンの集団です。トカゲの集団を支配下に置いて統率して来たのがアーク(アークトゥルス)です。

 

今は、アークが光に統合して「Q」としてアドレノクロムの闇のネットワークを破壊する仕事をしています。しかし、トカゲの残党がまだ残っています。DSを支えて何とか盛り返そうとするトカゲの残党たちと「Q」がせめぎ合っているのが現状です。地球を闇から光に移行させるには、DSの支柱となるワニ、トカゲ、ドラコなどのトカゲ・レプタリアンの残党たちをエネルギーワークで光に統合することが何よりも重要になります。

 

そういう意味で、旭川の地は、DSにとって非常に重要な拠点だと感じます。現在の旭川市の軍地基地としては、自衛隊の「旭川駐屯地」があります。旭川駐屯地は北海道旭川市春光町に所在し、第2師団司令部等が駐屯している陸上自衛隊の駐屯地です。旭川市は古くから軍都として栄えた街であり、1944(昭和19)3月までは大日本帝国陸軍第7師団が駐屯していました。

 

第7師団(だいしちしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つで、北海道に置かれた常備師団として北辺の守りを担う重要師団であり、道民は畏敬の念を多分に含め、「北鎮部隊」と呼んでいました。第7師団は1885(明治18)に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体とし1896(明治29)512日に編成されました。屯田兵は、北海道開拓における裏の松取りを行っていました。

 

屯田兵の真実を隠蔽する役割だったロスチャイルド貴族の教育者》にありますが、屯田兵は、榎本武揚や西郷隆盛などが、徳川家の遺臣や士族の処遇のために提唱しており、裏で松取りや大麻栽培などで資金稼ぎするための部隊でした。松取りの犠牲になるのは、アイヌ、朝鮮人労働者、罪人、開拓民が主であり、屯田兵そのものも松取りの犠牲になり得たと感じています。

 

旭川駐屯地は、5年程前に光を降ろしており、「トカゲの地下基地と人間牧場がある」と伝えられていました。旭川駐屯地司令(2師団長)の冨樫勇一と旭川駐屯の地下に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松」「いいです」と伝えられました。旭川駐屯地は、昔からの闇の状態で、「Q」の手が入っていない感じです。屯田兵司令官、第7師団初代師団長は、永山武四郎です。

 

永山武四郎の苗字が「永山中学校」などの旭川の「永山」の地名となりました。永山武四郎(1837-1904)は、鹿児島県出身の陸軍軍人、華族です。明治時代に北海道庁長官、第7師団長、貴族院議員等を歴任します。永山武四郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ワニ」と伴侶が伝えて来ました。ワニだったことは、旭川の地における松取り工作のトップだったことを意味します。(つづく)