1888年(明治21年)5月10日、ENEOS株式会社の前身の源流となる「有限責任日本石油会社」を新潟県刈羽郡石地村(現・柏崎市西山町石地)設立した内藤久寛と山口権三郎のワークを行うことにしました。内藤久寛(1859年-1945年)は、越後国刈羽郡石地村出身の実業家、政治家です。衆議院議員、貴族院勅選議員を歴任しました。日本石油を設立し「日本の石油王」と呼ばれました。
尼瀬海岸での石油産出に注目し、1888年5月、山口権三郎、牧口荘三郎、本間新作、岸宇吉らと有限責任日本石油会社を設立して常務理事(社長)に就任します。海底油田(尼瀬油田)の開発、掘削機械の導入、業界二位の宝田石油との合併などを進め、1926年まで社長を務めました。山口権三郎(1838年-1902年)は、明治時代の政治家、実業家です。天保9年6月9日、越後横沢村(新潟県長岡市)の庄屋に生まれました。
明治12年第1回県会議員選挙で当選,翌年議長となります。新潟第四国立銀行、日本石油、北越鉄道の設立などに関わりました。内藤久寛と山口権三郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「闇をつくった人の1人」「術師」と伝えられました。山口育英奨学会の公式サイトには、山口権三郎が松システム構築の中核を担った渋沢栄一との深い縁が記述されており、術を駆使するシリウスの長老や仙人のような風貌が掲載されています。
新日本石油のウィキペディアには、『社章は、「日本」の文字をコウモリで模った「コウモリ印」を使用していたが、これは創立記念式典の会場内に一羽のコウモリが舞い込んで来たことに由来している』という一文がありました。「左にコウモリ印・右にカルテックス社ロゴが入った日石私有貨車のタンク車」の説明書きがある「コウモリ印」の画像を観ると「目玉(支配)」「コウモリ(同和)」「悪魔(生贄・松取り)」を感じます。過去のワークで、コウモリは同和の闇の象徴だと分かっています。
ENEOS株式会社(エネオス)は、石油製品の精製および販売等を行う、東京都千代田区大手町に本社を置く企業です。持株会社ENEOSホールディングスの傘下であり日本の石油元売として最大手であり、世界では第6位の規模を持ちます。主な製品は、燃料油(ガソリン・軽油・灯油・ジェット燃料・重油など)やアスファルト、液化石油ガス、潤滑油といった石油製品や、ベンゼン・トルエン・キシレン・ナフサなどの石油化学製品です。
石油・石油化学以外のエネルギー事業では、液化天然ガスや石炭の輸入販売や燃料電池・エネファームの開発を進めるほか、製油所・製造所併設の発電所や油槽所に設置した風力発電設備などを使用した電力卸供給事業や電力小売事業を展開しています。ENEOSの代表取締役・杉森務、代表取締役社長・大田勝幸、本社に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「仁風林」「日本DS」「いいです。地下に繋がっている。八咫烏かもしれない」と伝えられました。
海底油田の尼瀬油田のウィキペディアに『1891年、アメリカ人を招聘のうえアメリカ式鑿井機を導入し、石坂周造らによって日本で初めて機械による掘削が成功したことから石油産業発祥の地とされている』と記されており、「石坂周造」が気になりました。石坂周造(1832年-1903年)は、信濃国水内郡桑名川村(現・長野県飯山市)出身とされる幕末の志士です。尊皇攘夷論者で明治期には石油産業の祖として知られます。
1871年(明治4年)、東京に長野石炭油会社を設立し、アメリカから輸入した綱掘り式掘削機械で相良油田から石油を採集しました。
石坂周造の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。やはり、尊皇攘夷の志士であった石坂周造は、DSの米国派工作員でした。新潟県柏崎市の日本石油関連ワークから、裏の金儲けである松利権を隠すカモフラージュとしての表の石油産業だったと感じます。
過去のヒプノセラピー《皇室の松システムに関わっていたアークの過去世》では、『皇室の生の松は生きが命だから。電話でやり取りした方が早いでしょ。馬車でやりとりしていたのを電話にした。そのため電話が発達した』と伝えられました。現実的な生の松の輸送、調達のために、電話やインターネットの連絡網、陸路や空路の流通網が作られて来たのです。表の世界の通信、移動、輸送の手段は、裏の松システムの構築によって生まれて来たのです。
《浅野総一郎 記念会-2 石油タンクのはじまり》には、浅野総一郎が新潟県柏崎市に浅野製油所を建設したことが記されています。また、渋沢栄一らと共に、石油の流通のための鉄道路線の敷設と鐵製筒型タンク車の開発について浅野総一郎が尽力したことが書かれています。『当時の鉄道は「長野~直江津」は既に官営で施設されていた。しかし、直江津から新潟への官の鉄道計画はまだなかった。
そこで、以前から内藤久寬とともに石油事業を進めていた山口権三郎ら新潟の有志が明治21年頃から鉄道施設を出願していた。それに応え、渋沢栄一.前島密.銀林網男.大倉喜八郎.山口.内藤.それに浅野総一郎ら21名が発起人となり、27年4月に北越鉄道株式会社が資本金370万円で創設された』。新潟の石油事業の進展に伴って、北越鉄道株式会社(現在の信越本線直江津 - 新潟間)が設立したことが分かります。(つづく)