社会福祉法人たちばな公式サイトの設立趣旨には、重症心身障害者施設の設立経緯が書かれていました。『昭和22年の児童福祉法法制化により、漸次多様な福祉施設整備が進められたが、昭和30年代までは行政施策も充分でなく、肢体的障害、知的障害が重複しかつ重度の重症心身障害児は優先して施設入所措置を必要とするにもかかわらず、既存の施設に入所を願望しても両面の障害があるため無理であるとの理由付けで拒否されていた実情にありました。
このような矛盾した実態を踏まえて、昭和30年前半頃中央において小林先生はじめ、島田・草野・糸賀先生等の切実な提言運動が発端となり重症心身障害児対策協議会発足の展開となり、国家財政の苦しい中努力が実を結び、昭和42年8月に至り重症心身障害児施設法制化が実現されました。その当時、「社会福祉法人たちばな会」松下兼知理事長も重症児対策に共感奔走し、早急に重症児施設の設立の必要性を訴え、苦節の末、昭和41年1月重症児施設法制化に先立って全国でも6番目に重症心身障害児(者)施設として、オレンジ学園が開設の運びに至りました』。
「小林先生」をネットで探すと《重症心身障害児(者)施策の歴史》を見つけました。『以前:◎小林先生 日赤産院小児科 重症児の診療 「両親の集い」 ◎秋津、草野先生 ◎びわ湖、糸賀先生。昭和36年:◎島田療育園設立 委託研究費
400万』と記されていました。「島田療育園」がキーワードだと感じました。島田療育センターのウィキペディアには、『島田療育センターは、東京都多摩市にある重症心身障害児施設である。日本初の重症心身障害児対象の施設である。また医療法による病院でもある。
1961年(昭和36年)「島田療育園」として開設。
初代園長は、小林提樹(こばやしていじゅ)である。開設にあたっては、電源開発元総裁の内海清温が募金集めに奔走し、1,500万円の寄付を集めた。用地の確保にあたっては、日本遊技場組合(現・日本遊技関連事業協会)の元組合長である島田伊三郎が、自身の子どもが重度のてんかん発作を伴う知的障害だったこともあって尽力した』とありました。ワークの対象は、重症心身障害者施設と携わった人物だと感じました。
感覚的には、松取り(松果体収穫)の闇に関わる重症身障者施設だと思いました。小林提樹のコトバンクには、『昭和・平成期の医師,医学者 島田療育センター名誉院長。生年明治41(1908)年3月23日。没年平成5(1993)年3月7日。出生地長野県長野市。学歴〔年〕慶応義塾大学医学部〔昭和10年〕卒。学位〔年〕医学博士。主な受賞名〔年〕北里賞〔昭和33年〕,日本医師会最高優功賞〔昭和38年〕,朝日賞(昭44年度)。経歴:昭和13年慶応大学病院小児科の精神衛生相談主任、21年日赤産院小児科部長を兼任。
29年障害児療育に関する啓蒙のための月刊誌「両親の集い」を創刊。また、障害児の家族を対象とする月例講演会を開き、この参加者を中心として41年全国重症心身心身障害児(者)を守る会が結成された。日赤入院の重症心身障害児が不治を理由に健保取り扱いが廃止され、続いて医療扶助停止になったのを見かね、36年島田伊三郎が開園した重症心身障害児施設・島田療育園の園長に転進。49年まで務め、その後、重症心身障害児療育相談センターの医師になった』と記されています。
小林提樹の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「レプ」と伝えられました。島田療育園設立のために、1,500万円の寄付を集めた電源開発元総裁の内海清温(うつみきよはる)も重要人物でした。ウィキペディアには、『内海 清温(1890年-1984年)は、大正時代から昭和時代の土木工学者、内務官僚。鳥取県久米郡倉吉町(現・倉吉市)に生まれる。第一高等学校を経て、1915年(大正4年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、内務省に入省する。
江戸川改修事務所勤務として江戸川分流頭首工事を担当する。1919年(大正8年)9月に退官し、朝鮮に渡り電気化学工業(現・デンカ)の発電水力調査業務に従事。工務部土木課長として朝鮮での10万kW級の水力発電所の建設可能性を現地調査し、帰朝後は宮崎県の大淀川の水力発電所建設所長に転じ、1万5千kWと3万kWの2ヵ所の水力発電所を建設した。1927年(昭和2年)には独立し水力コンサルタントを開業する。
青森県、宮城県、福島県などの各県や黒部川電力、越後電力、山陽中央水電、雄谷川電力などの電力会社、横須賀市、兵庫県阪神上水道調査、大阪府営水道調査、埼玉県水利資源調査など水道会社の顧問を歴任し、さらに東京帝国大学、早稲田大学、日本大学の水力発電工学の講師を担当した。1937年(昭和12年)富士川電力(日本軽金属の前身)に入り取締役土木部長として富士川水力発電10万KW建設に従事した』と記されています。
内海清温は、取水工事などの土木工事と水力発電所の建設に関わっており、秘密裏の松取りと水力発電所の地下の松工場の構築に深く関与して来た人物だと感じます。《東北電力のワークから浮上する揚水発電所の裏側のアドレノクロムの闇》にありますが、水力発電所は、アドレノクロムなどの松製品の地下工場を作るための隠れ蓑だと見ています。内海清温の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「水力発電所の地下に運んでいた」と伝えられました。
内海清温は、松原料の収集のための島田療育園の設立に尽力したと思います。島田療育園の土地提供者で園長も勤め、名称の由来となった島田伊三郎(日本遊技場組合(現・日本遊技関連事業協会)の元組合長)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「半島」と伝えられました。島田療育園の財政面での功労者がもう1人いました。補助金の拠出につながる法的な障害者保護を訴える手記を発表した作家の水上勉(みなかみつとむ)です。
『島田療育園に寄付が集まりにくくなり、慢性的な財政難を抱えることになった。1964年(昭和39年)、自身も障害児の娘を抱える作家の水上勉が、雑誌「中央公論」の誌上に「拝啓、池田総理大臣殿、」と題して法的な障害者保護を訴える手記を発表する。これが反響を呼んで、1967年(昭和42年)から、重症障害児が法的に保護されることになり、補助金も拠出されるようになった』とwikiに記載されています。
水上勉(1919年-2004年)は、福井県大飯郡本郷村(現:おおい町)出身の小説家です。社会派推理小説「飢餓海峡」、少年時代の禅寺での修行体験を元にした「雁の寺」、伝記小説「一休」などで知られます。禅寺を出奔して様々な職業を経ながら宇野浩二に師事、社会派推理小説で好評を博して、次第に純文学的色彩を深め、自伝的小説や女性の宿命的な悲しさを描いた作品で多くの読者を獲得します。
その後は歴史小説や劇作にも取り組む一方、伝記物に秀作を残しました。作品の映像化も多く、日本芸術院会員であり、文化功労者でもありました。水上勉の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伴侶が伝えて来ました。やはり作家や文学者には、闇の仕事を成す工作員が多いです。島田療育センターの理事長・河幹夫、東京都多摩市中沢の所在地に光を降ろすと「分からない」「いいです」と伝えられました。(つづく)