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「重症心身障害児()施策の歴史」のサイトを含め、ネットで重症心身障害児施設を調べていくと、歴史的に古い施設として、「近江学園(滋賀県)」、「びわこ学園(滋賀県)」、「秋津療育園(東京都)」があり、ワークの対象にすることにしました。ウィキペディアには、『近江学園は、滋賀県湖南市の知的障害児、孤児収容施設。1946年に、糸賀一雄・池田太郎・田村一二により創立された。1946 - 滋賀県大津市南郷に開設。

 

1948 - 児童福祉法施行に伴い県立の児童福祉施設となる。1960 - 糸賀が欧州の施設視察で見聞をひろめる。1963 - 「この子らを世の光に」をモットーにすべての子どもたちに権利としての発達の保障を訴えた。大津市の長等山の麓に重症心身障害者施設・第一びわこ学園(現在のびわこ学園医療福祉センター草津)を創立(園長は岡崎英彦)し、近江学園で研鑽し蓄積してきた療育指導を森俊樹指導主任を中心に展開する。

 

その後、野洲市に第二びわこ学園(現在のびわこ学園医療福祉センター野洲)を設置し、ここでは池沢敏夫を中心に療育指導を展開していく』と記されています。3人の設立者が重要だと思いました。糸賀 一雄(1914-1968)は、鳥取市立川町出身の社会福祉の実践家です。知的障害のある子どもたちの福祉と教育に一生を捧げました。戦後日本の障害者福祉を切り開いた第一人者として知られ、「社会福祉の父」とも呼ばれます。

 

194611月、戦後の混乱の中で池田太郎、田村一二の要請を受け、戦災孤児を収容するとともに、知的障害児の教育を行う「近江学園」を創設し、園長となります。その後、落穂寮、信楽寮、あざみ寮、日向弘済学園などの施設を相次いで設立しました。1968(昭和43)917日、滋賀県大津市での県新入職員のための講演中に持病の心臓発作により倒れ、翌日死去(享年54)しました。葬儀は滋賀県葬で営まれ、天皇から祭粢料(さいしりょう)が下賜(かし)されました。

 

池田太郎(1908-1987)は、福岡県出身の社会福祉教育家、近江学園創立者です。1946年、糸賀一雄、田村一二と近江学園を創立し、1952年信楽寮(現信楽学園)1962年信楽青年寮を開設し、信楽学園学園長を1970年まで務めます。1970年社会福祉法人信楽青年寮寮長となり、民間下宿を全国で初めて発足させ、知的障害児・者の療育に力をそそぎました。田村一二(1909-1995)は、京都府舞鶴市出身の障害児教育の先駆者であり、草分け的存在です。

 

昭和8年、京都師範(現・京都教育大学)図画専攻科卒業し、昭和8-19年、京都市滋野小学校特別学級担任となります。昭和19-21年、大津石山学園設立し、寮長を務めます。昭和21-36年、滋賀県立近江学園設立し、寮長に就きます。糸賀一雄、池田太郎、田村一二の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「トカゲ。ペド。人喰い」「分からない」「売買。3人は役割分担していた」と伝えられました。

 

近江学園の園長・植田重一郎と滋賀県湖南市東寺本部所在地に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」「いいです」と伝えられました。びわこ学園については公式サイトに、『びわこ学園は滋賀県立近江学園での療育実践の結果、「医療と教育の機能を持つ重症心身障害児(以下、「重症児」)施設が必要である」ということから、病院の機能を持った児童福祉施設として全国で二番目の重症児施設として、昭和38(1963)4月から滋賀県大津市で事業を開始しました』とあります。

 

びわこ学園の理事長は山﨑正策(やまさきしょうさく)です。公式サイトには、『1949年に京都市に生まれる。1975年に京都府立医科大学を卒業後、京都府立医科大学附属病院小児科で研修を行う。1977年に健康保険組合松下病院(現・松下記念病院)に勤務を経て、1978年に滋賀医科大学文部教官に就任し、滋賀医科大学医学部附属病院小児科助手となる。1985年に滋賀医科大学大学院を修了し、彦根中央病院に勤務する。

 

1986年に滋賀医科大学医学部附属病院小児科講師に就任する。1987年に国立療養所紫香楽病院(現・紫香楽病院)の勤務を経て、1991年に近江八幡市民病院(現・近江八幡市立総合医療センター)に小児科部長として勤務する。1993年に社会福祉法人びわこ学園第二びわこ学園(現・びわこ学園医療福祉センター野洲)に園長として着任する。2003年に社会福祉法人びわこ学園理事長に就任する』と記載されています。

 

医師ゆえに自在に裏の仕事を成したと感じます。びわこ学園の理事長・山﨑正策と滋賀県野洲市北桜の施設に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松取り」「いいです」と伝えられました。秋津療育園(東京都)は、公式サイトによると『社会福祉法人 天童会 秋津療育園は、児童福祉法に基づく医療型障害児入所施設及び 障害者総合支援法に基づく療養介護事業を行う施設で、その対象は重症心身障害児者の方々です』とあります。

 

天童会理事長・飯野順子、秋津療育園園長・大石勉、東京都東村山市青葉町の本部に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「やばい人。松」「色情。松」「光は入りました」と伝えられました。重症心身障害児施設の設立の歴史から垣間見えるものは、表で弱者を助ける形を作って、裏で人命を犠牲にして金儲けする仕組です。日本が深い闇になるために究極の嘘をつく役割を担って来た人々もいます。目に見える世界は、隠すことが出来ます。

 

幕末維新の時から医療・福祉の領域の裏で暗黒網が作られてきた函館市》にありますが、社会福祉法人北海道社会事業協会の歴史には、『大正117月、昭和天皇(当時皇太子殿下)御来道のおり社会福祉振興のため当協会に5,000円を御下賜。大正139月御下賜金(ごかしきん)を基本とし、北海道庁長官である理事長は更に基金を増殖し社会福祉の 発展を期するため財団法人に改組』とあります。御下賜金(ごかしきん)は、現在も続いています。

 

毎年、天皇誕生日に際し、天皇から優良な民間社会福祉事業施設・団体に対して提供される金一封です。福祉施設への松取りの栄誉・褒美だと感じています。表で慈善事業をして、裏で人命を奪って金儲けするエゴの闇の構図が作られてきました。表向きは障害者を助ける名目で、松取り(松果体収穫)の闇の仕組が作られて来たのです。闇の役割として続いてきた、命を金に換える暗黒の仕組が終わりになることを願っています。(おわり)