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10日、午前11時頃に「ベランダにカラスが1とまっている」と伴侶が話して来ました。窓越しにベランダを見ると手すりにこちらを向いている1羽のカラスがいました。何かのサインだと思いました。昨年2月には、5羽の小鳥が一列に並んでいたこともありました。この時は、「ごわ」から「和合(わごう)」という同和やサンカに繋がりました。同和の闇の役割をしていた人物に対するワークのためのヒントでした。今回のカラスのヒントは、八咫烏だと感じました。

 

ちょうど前日に《壮大な原発工作の闇に繋がる反原発を啓蒙する京都大学の熊取六人衆》の記事を書いており、八咫烏の源流が京都にあるのだと思いました。「八咫烏のことは分かったよ。京都のワークをするから、ありがとう」とカラスに話しかけると反対の方を向いてスーと飛んでいきました。誰が働き掛けてくれているのか分かりませんが、ちょうどよいタイミングでヒントを与えてくれます。まずは、原発反対の工作の役目をしている熊取六人衆の京都大学を調べました。

 

京都大学は、1897年に設置された、京都府京都市左京区吉田本町に本部を置く日本の国立大学です。京都大学は、日本で2番目に創設された帝国大学たる京都帝国大学の流れを汲んでいる国立大学で、大学入試においては東京大学に次ぐ日本トップクラスの最難関大学とされます。精神的な基盤として、京都大学では「自由の学風」を謳っています。京都大学の起源は1861920日に長崎に設立された長崎養生所(後の長崎精得館)まで遡ります。

 

長崎精得館の理化学部門は、当初は江戸にあった開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていましたが、明治維新の混乱で実現しませんでした。慶応4(1868)に明治政府は「理化学校」を舎密局(せいみきょく:後の理学校)として大阪に開設することを決定、明治2(1869)に開校しました。ウィキペディアには、《731部隊の闇を引継ぐ日本の医療体制》でワークを行っていた陸軍731部隊の軍医・石井四郎についても記述されています。

 

『京大医学部出身の軍医である石井四郎は、満州国の関東軍に731部隊を設立し、化学兵器や生物兵器の開発や、捕虜や罪人に対する人体実験などを行った。これに対し、医学部長を務めた戸田正三や、石井の指導教員であった医学部教授の清野謙次は、京大医学部出身者を部隊の人材として送り込み、石井の活動を支援した』。京大医学部が731部隊隊長の石井四郎のバックアップをしていました。

 

731部隊は、人体実験が前面に出ますが、実質的には松取り(松果体収穫)が目的だったと見ています。Wikipediaにある京都大学の沿革の中から、ワークの対象として「折田彦市」「西園寺公望」「木下広次」「中川小十郎」をピックアップしました。折田彦市(1849-1920)は、京都大学の前身である旧制第三高等学校(三高)の初代校長です。明治時代に活動した薩摩国(鹿児島県)出身の教育者・文部官僚です。

 

その前身校も含めれば約30年間にわたって三高の校長を務め、同校の「自由の学風」を築いたとされます。折田は、幕末維新に暗躍して岩倉具視に厚い信頼を受けていました。折田彦市の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ロスチャのスパイ。日本はロスチャの拠点。ロボに変えていると思う。だからアーク」と伴侶が伝えて来ました。以前まではロスチャイルドは単独だと思っていましたが、今は裏に八咫烏がいると思っています。

 

西園寺公望(さいおんじきんもち:1849-1940)は、1895年に日清戦争で得た賠償金を基に第三高等学校を帝国大学へ昇格させる提案を行いました。山城国京都(京都府京都市)出身の公家、政治家、教育者です。戊辰戦争において官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となりました。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣しました。

 

4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めました。明治36(1903)には伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39(1906)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣しました。西園寺公望は、伊藤博文の子分だったと言えます。

 

西園寺公望の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「完全に日本DSを作った人」と伝えられました。1906年京都帝国大学文科大学を設置し、初代総長には文部省専門学務局長の木下広次、事務局長に当たる「書記官」には中川小十郎が就任しました。木下広次(1851-1910)は肥後国飽田郡坪井(現在の熊本県熊本市)出身の法学者、教育行政官です。第一高等中学校(東京大学教養学部の前身)校長、文部省専門学務局長、京都帝国大学(京都大学の前身)初代総長、貴族院議員を歴任しました。

 

中川小十郎(1866-1944)は、丹波国南桑田郡馬路村(現・京都府亀岡市馬路町)出身の政治家(貴族院議員等)で、官僚(文部省官僚等)、教育者(京都法政学校〈現・立命館大学〉創立者等)、実業家でもあります。戊辰戦争以来西園寺公望に仕えた丹波の郷士の中川家に、中川禄左衛門とさきの長男として生まれました。財団法人「慈恵院」を設立し、窮民救済活動をし、日本赤十字社樺太委員副総長にも就いています。

 

実質的に、中川小十郎は、西園寺公望の子分でした。木下広次と中川小十郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「東大と京大の2つの拠点を作るのに尽力した人」「大物工作員」と伝えられました。やはり京都大学は、天皇の松利権を守護する工作拠点として作られ、工作員を養成するための学校としての役割があったと感じます。次に、京都大学の起源となる1861年に設立された長崎養生所の歴史を追って行きました。(つづく)