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京都大学には、3つのキャンパスがありますが、最大規模のキャンパスが吉田キャンパスです。京都大学吉田キャンパスは、京都府京都市左京区吉田であり、京都御所の東側約1kmに所在します。ウィキペディアによると、吉田キャンパスの本部構内には、幕末期に尾張藩京都下屋敷が置かれていました。また、北部構内には、土佐藩の下屋敷が置かれ、薬学部構内には、幕末期には会津藩下屋敷が置かれていました。

 

特に、天皇の住まいである御所の警護のための京都守護職の任務を担っていた会津藩の下屋敷が置かれていたことが意味があります。過去のワークから、会津藩は、藩主の松平容保を主に、裏では、天皇の命による松取り(松果体収穫)の工作を担っていたと分かっています。不思議ですが、その土地の闇は時代を経ながら次代に引継がれていきます。京都大学の吉田キャンパスに光を降ろすと「地下がありそう」と伝えられました。

 

京都大学の総長は湊長博(みなとながひろ)です。公式サイトによると湊長博総長の経歴は、『1975(昭和50)3月京都大学医学部卒業。1977(昭和52)7月京都大学結核胸部疾患研究所附属病院医員。 1977(昭和52)10月米国アルバートアインシュタイン医科大学微生物免疫学教室客員研究員。1990(平成2)8月自治医科大学助教授。1992(平成4)6月京都大学医学部附属免疫研究施設教授。2010(平成22)年10月京都大学大学院医学研究科長・医学部長など』と記されています。

 

また、近畿富山県人会サイト「京都大の次期総長に富山県氷見市出身の湊氏に」によると『湊氏は2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑(ほんじょたすく)・京大特別教授の共同研究者として知られる』とあります。旧加賀藩の富山県出身で、米国アルバートアインシュタイン医科大学で仕事をしているので、松取り工作の闇が深いと感じます。京都大学の湊総長に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「日本DS」と伝えられました。

 

コロナやワクチンの闇にも関係している可能性があると思います。京大吉田キャンパスのある吉田(京都市)のウィキペディアを読んでいくと、やはり「吉田神社」が気になりました。Wikipediaには、『吉田神社は、京都市左京区吉田神楽岡町にある神社。吉田山に鎮座している。祭神は次の4柱(「春日神」と総称)で、勧請元の春日大社と同じ。建御賀豆智命(たけみかづちのみこと、武甕槌命)、伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命)、天之子八根命(あまのこやねのみこと、天児屋根命)、比売神(ひめのかみ)

 

貞観元年(859)、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになった。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469-1487)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として文明16(1484)、境内に末社斎場所大元宮を建立した。

 

近世初めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(明治5年に宮中に遷座した)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。江戸時代に入ると社領は590石であったが、寛永5(1665)、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、幕末に至るまで神道界に大きな権勢を誇っていた。しかし、時代が明治になると神道裁許状の特権は剝奪された。

 

やがて、国家神道によって神社界は伊勢神宮がその中心となってしまい、吉田神社は官幣中社に列せられたとはいえ、ごく普通の神社となってしまった・・天皇家の祖先である天照皇大神を直接祀る伊勢神宮こそが日本で最上位の神社であるという国家神道が勢いを増す中で吉田神道の勢いは衰えを見せ、現在では大元宮は吉田神社のいち末社の扱いを受けるにいたっている』と記載されています。幕末維新を境に吉田神社の降格された感じになっています。

 

吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者で吉田神社の神主である吉田兼倶(よしだかねとも:1435-1511)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「純粋だった」と伝えられました。吉田家の源流の卜部氏(うらべうじ)は、古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた「卜部」を氏の名とする氏族です。卜部とは亀卜(亀甲を焼くことで現れる亀裂の形(卜兆)により吉凶を占うこと)を職業とした品部です。伊豆・壱岐・対馬の卜部氏は神祇官の官人に任ぜられました。

 

伊豆卜部氏の祖である卜部平麻呂(807年-881年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「カルマが大きい。亀を虐待していた」と伝えられました。大半が吉田神社の神苑だった山地が吉田山です。吉田山は、京都盆地北東部にあり、標高は105mの孤立丘です。京都府京都市左京区吉田神楽岡町に所在し、別名は神楽岡(かぐらおか)や神楽ケ岡(かぐらがおか)であり、歴史的には吉田山ではなく神楽岡と呼ばれました。吉田神社の宮司・澤井隆男、境内全体、吉田山に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。

 

「色情」「半島。キリスト教」「いいです」と伝えられました。吉田神社は朝鮮半島とキリスト教に関係することから松取りの闇としての景教という原始キリスト教を日本に伝えた渡来人・秦氏が浮かびます。吉田神社は藤原氏の氏神を祀る神社です。表の工作を得意とする藤原氏の裏に秦氏が存在していたと感じます。秦氏は天皇の守護と裏の支配を司る秘密結社の八咫烏を統括していた術を巧みに使う氏族と見ています。京都の地に引継がれて来た工作と裏の支配という闇の仕組が終わることを願っています。(おわり)