楢原知里さんが熊本大学の研究員になる前は、長崎大学熱帯医学研究所の研究員でした。長崎大学熱帯医学研究所は、長崎県長崎市坂本にある日本で唯一の熱帯医学の研究を主眼とした長崎大学の医学研究所です。ケニア、ベトナムにも研究拠点をもちます。1942年に旧制長崎医科大学に附属する東亜風土病研究所として設置されました。1945年に原爆被災により壊滅します。1946年に長崎医科大学風土病研究所と改称されます。
1949年に新制大学の設置により組織母体が長崎大学となり、1967年に熱帯医学研究所に改称されます。1989年に全国共同利用型附置研究所に改組され、2009年に共同利用・共同研究拠点「熱帯医学研究拠点」に認定されます。長崎大学熱帯医学研究所の前身は、東亜風土病研究所です。ウィキペディアには、『日中戦争が全面化すると、中国大陸からの感染症の侵入を防止する研究の需要が高まり、1940年秋、長崎医大には病理学教室・細菌学教室を母体にした大陸医学研究班が設置された。
翌年、同班は大陸医学研究所病理部と改称、病理・細菌2学科を設置し、1942年3月にはこれを拡充して東亜風土病研究所が開設されるに至った。東亜風土病研究所は九州南部の風土病調査などを行う一方で、中国大陸の日本軍占領地で医療・衛生行政を担っていた同仁会と提携し、漢口などで野外調査を進めた。また当時長崎で大流行をみたデング熱の調査も行った』と記されています。
中国大陸での戦争時期に調査を行っていることから松取り(松果体収穫)と人体実験を行った731部隊と同じ隠された闇を感じます。東亜風土病研究所の初代所長は、原爆被災時の長崎医科大学学長でもあった角尾晋(つのおすすむ)です。『被爆後、角尾は学生・職員に背負われ、大学近くの滑石の救護所まで避難し調来助教授の看護を受けたが、調および古屋野宏平教授に後事を託し、大学の将来を案じながら8月22日に52歳で死去した』と記載されています。
角尾晋(1892年-1945年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「いいです。殺されたかも。対抗勢力に」と伝えられました。個人的には、広島・長崎の原爆は、原子力爆弾の投下ではなく、設置された爆弾の破裂だと推測しています。天皇をトップとする創価とDSによる731部隊と同様な松取り、実験・データ収集という隠された金儲けのための大規模工作だったと見ています。広島・長崎の原爆については、別途、調査とワークを進める予定です。
熱帯医学研究所の所長は、森田公一です。ウィキペディアによると、『森田公一(1956年-)は、日本の医師、ウイルス学者。学位は医学博士(長崎大学大学院・1985年)。長崎大学熱帯医学研究所・所長。1981年-長崎大学医学部卒業、1985年-長崎大学大学院終了(医学博士) 、1985年-ニュージャージー医科歯科大学 助手、1988年-長崎大学熱帯医学研究所 助手、1989年-長崎大学熱帯医学研究所 講師、1995年-WHO 西太平洋地域事務局感染症対策課 課長
2001年-長崎大学熱帯医学研究所
教授、WHO 指定研究協力センター長、2013年-長崎大学熱帯医学研究所 所長(第1次)、2019年-長崎大学熱帯医学研究所
所長(第2次)』とあります。《夢のヒントから導かれた海外拠点の感染症プロジェクトと結核予防会》にありますが、森田公一は「新興・再興感染症制御プロジェクト
感染症研究国際展開戦略プログラム(J-GRID)のベトナム拠点の課題の代表研究者になっています。
森田公一に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「仁風林。松喰い」と伝えられました。長崎大学医学部長・前村浩二、長崎大学医学部附属病院病院長・中尾一彦、長崎県長崎市坂本の長崎大学医学部と病院の所在地に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「レプ」「半分レプ。ペド」「いいです」と伝えられました。長崎大学は、1949年に設置された長崎県長崎市文教町に本部を置く国立大学です。
起源は、幕末の1857年にオランダ海軍の軍医ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト(ポンペ)が、長崎奉行所内に開いた日本最古の医学校「医学伝習所(後進・長崎養生所)」です。直接の前身は1923年創立の長崎医科大学で、旧制六医科大学の旧官立大学の一つです。第二次世界大戦後に同医科大学と長崎県内にあった他の学校が統合され、文理にまたがる総合大学となりました。長崎大学の学長は河野茂です。
河野茂(1950年-)は、日本の医師、医学者です。学位は医学博士(長崎大学大学院・1980年)で、長崎大学・第15代学長(2017年10月-)です。日本感染症医薬品協会・常務理事を歴任しています。長崎大学学長・河野茂と長崎県長崎市文教町にあるキャンパスに闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「アーク」「いいです」と伴侶が伝えて来ました。最後に、楢原知里さんの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。
長崎の地は、本来、水の場所であり重要な光の地でした。闇の時代、大きな光の場所ほど、深い闇の地になることが分かっています。人間のエゴによって、松利権集団という人命を金に換える深い闇の仕組が作られてきました。さらに、原爆という同和の闇となる工作によって真実を隠蔽されて来たと感じます。熊本と長崎に置かれた大学は過去からの闇を引継ぐ拠点の役割を担っていました。楢原知里さんの魂が光に還り、熊本大学と長崎大学が本来の光の姿に変わることを願っています。(おわり)