Ishioka_I_power_station


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20日、首の右側に軽い痛みと凝りがありました。ワークの場所を教えるサインでした。私の場合、左腕が日本列島の房総半島なので、茨城県の日立市だと感じました。日立市は、日立製作所の場所です。山口県の宇部興産のある宇部市のワークを行っていたので、間違いないと思いました。日立市は、茨城県北東部の県北地域にある太平洋に臨む市です。総合電機メーカー・日立製作所の創業の地として知られます。

 

日立鉱山から発展した鉱工業都市です。1905(明治38)、江戸時代から採掘されていた日立村の赤沢銅山を久原房之助が買収し、村名にちなんで日立鉱山に改名、久原鉱業所(現在のJX金属)を創業しました。以来、日立製作所・日立グループの企業城下町として知られますが、主力工場が三菱重工業に移管され、現在は三菱重工業の企業城下町でもあります。他に、日立市と同様に鉱山町から企業城下町になった地域があります。

 

愛媛県新居浜市(別子銅山住友グループ)や山口県宇部市(宇部炭鉱宇部興産)が代表的です。やはり日立市は日立製作所の前身の日立鉱山が源流であり、宇部興産の前身である宇部炭鉱と同様に、松取り(松果体収穫)の闇を引継いでいると感じます。日立市の初代市長と現市長を対象として、この時は私1人でワークを行いました。初代市長・福田重清(1889-1964年・富山県出身)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 

風貌と富山県出身であることから半島系工作員と感じました。現市長・小川春樹(2期・1948-)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。日立鉱山は茨城県日立市にあった鉱山で、主に銅と硫化鉄鉱を産出しました。1905(明治38)以前は赤沢銅山と呼ばれていた小鉱山でしたが、同年久原房之助が経営に乗り出し、日立鉱山と改名され本格的な開発が開始されました。久原の経営開始以後大きく発展しました。

 

1905(明治38)から閉山となった1981(昭和56)までの76年間に、約3000万トンの粗鉱を採掘し、約44万トンの銅を産出した日本を代表する銅鉱山の一つとなりました。日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成され、また日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生しており、日立鉱山は日本の近代産業史に大きな足跡を残しています。

 

久原財閥の総帥である久原房之助(くはらふさのすけ:1869-1965)は、山口県萩市出身の実業家、政治家です。日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取りました。第一次世界大戦後の恐慌を機に政界へ進出し、衆議院議員当選5回を成しています。逓信大臣、内閣参議、大政翼賛会総務、立憲政友会(久原派)総裁を歴任しました。

 

「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれ、右翼に資金を提供して二・二六事件に深く関与しました。戦後はA級戦犯容疑者(不起訴)となり、公職追放となり、その後は、日中・日ソ国交回復会議議長などを務めました。久原房之助は反社が絡むロスチャ系工作員と感じます。御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。株式会社日立製作所は、日本の電機メーカーであり、日立グループの中核企業で、世界有数の総合電機メーカーです。

 

前身は、現在の茨城県日立市にあった銅と硫化鉄鉱を産出する久原鉱業所日立鉱山です。日立鉱山を母体として久原財閥が誕生し、久原財閥の流れを受けて日産コンツェルンが形成されました。また、日立鉱山で使用する機械の修理製造部門が、1910年に国産初の5馬力誘導電動機(モーター)を完成させて、日立製作所が設立されました。IT、エネルギー、インダストリー、モビリティ、ライフ、日立ハイテク、日立建機、日立金属、その他の9の部門から構成されています。

 

売上高87672億円、営業利益7549億円、総従業員数295941人は、総合電機の中で最大であり、日本の全業種中でもトヨタ自動車、日本電信電話に次ぐ規模の従業員数を誇る巨大企業です。日立製作所の初代社長・小平浪平(1874-1951)は、東京電力勤務や鉱山に使用するための水力発電所の設置に関与していたので、松果体収穫に深く関係していたと感じます。御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 

日立製作所の現会長・東原敏昭(徳島県出身・1955-)、現社長・小島啓二(京都大学出身・1956-)、東京都千代田区丸の内一丁目の本社に、それぞれ闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。会長、社長がロスチャイルド・創価学会のDSに深く関係する徳島県と京都大学の出身であることに頷きました。日立製作所のマーク(日立の広告の画像)には、闇の役割が暗示されていると感じます。

 

電気技術史》には、『創業社長であ る小平浪平は、当社設立前から「立派な製品を作って 世人の信用を得るためには独自のマークが必要であ る」と考え、自ら案出したものが「日立マーク」、通称「亀の甲マーク」です。このマークは、「日」と いう文字と「立」という文字を同心的に重ね合わせたも ので、外周より上下左右に太陽の後光を突起として付 し、「太陽と共に立つ」という創業の意気を示したものです』と記されています。

 

しかし、明らかに「目玉」の印に見えます。「目玉」は、「プロビデンスの目」や「ホルスの目」とも呼ばれますが、「支配の闇」を意味します。「目玉」は、「松果体」であり松利権に通じ、「金の闇」に繋がります。最終的には、「松」と「金」による支配という暗闇を意味します。日立製作所は、東芝、三菱重工と並ぶ原子炉メーカーであり、松利権の闇が絡む原発に深く関わって来ました。日立製作所の闇の役割が終わり、日立の地が開かれていくことを願っています。