知覧特攻平和会館は、第二次世界大戦末期に編成された大日本帝国陸軍航空隊の特攻に関する資料を展示している鹿児島県南九州市知覧町郡にある歴史博物館です。知覧特攻平和会館の設立の源流は、「終戦後の特攻隊員の慰霊と特攻平和観音像の建立」です。wikiには『沖縄戦で日本陸軍の陸軍航空隊第6航空軍司令官として特別攻撃を指揮した菅原道大が、終戦後に自決を決心するも、参謀長の川嶋虎之輔少将から説得された。
自決することを止めて、もっとも特攻を知る者として、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決心、全国の特攻隊員の遺族巡りをしていた。知覧飛行場はアメリカ海兵隊に破壊されて跡形も無くなっており、「特攻の母」こと鳥濱トメが、独自で跡地に木切れの慰霊碑を立てて生花や線香を絶やさずに供し慰霊を続けているだけであった。遺族巡りを続けていた菅原は、特攻隊員の慰霊施設の必要性を痛感した。
元日本陸軍航空総軍司令官河辺正三や軍令部総長及川古志郎ら元軍幹部などと「特攻平和観音奉賛会」を設立、法隆寺の夢違観音像にちなみ、胎内に菅原直筆の特攻戦没者の芳名を記した巻物が収められた「特攻平和観音像」を4体建立し、うち1体を、陸軍航空隊の特攻基地であった知覧に祀りたいと知覧町に申し出た。同時に、菅原らは観音像を祀る観音堂建立のための協力も要請し、菅原らは日本全国で寄付金を募った。
陸軍航空隊知覧飛行場跡地に特攻隊員の精神の顕彰と世界平和の祈念を目的に1955年(昭和30年)9月28日に「特攻平和観音堂」が建立され、観音像は「知覧特攻平和観音像」と命名され観音堂に収められた』と記載されています。wikiの内容で一番不可解な点は、特攻隊を指揮した菅原道大が自決しないで生き残り、慰霊という名目で観音像などの施設建設の先頭に立っていたことです。
菅原道大(1888年-1983年)は、長崎県出身で95歳まで生きていました。菅原道大の御魂が上がるよう光を降ろすと「同和」と伝えられました。個人的には、工作員だったと見ています。河辺正三は、インパール作戦の司令官・牟田口廉也の上官です。過去のワークでは、菅義偉前首相の過去世が河辺正三であり、安倍晋三元首相の過去世が牟田口廉也だと分かっていました。河辺正三、及川古志郎ら元軍幹部も、秘密裏に兵士の松取りに関係した工作員と感じます。
「特攻の母」と呼ばれる存在が鳥濱トメ(とりはまとめ:1902年-1992年)です。wikiには『鳥濱トメは、鹿児島県の食堂経営者。川辺郡知覧町(現在の南九州市知覧町郡104)で「富屋食堂」を営み、多くの特攻隊員の面倒を見ていたことから“特攻の母”と呼ばれた。トメは作家・高木俊朗の著作に取り上げられたことで、知名度が全国区となった。さらに1972年に、歌謡曲「岸壁の母」を二葉百合子がカヴァーしたことによって起こったリバイバルブームで注目された。
自分の息子のように特攻隊員と優しく接したトメも銃後の母の1人としてクローズアップされて、「特攻おばさん」から「特攻の母」と呼ばれるようになって、更に知名度が向上していき、全国放送のテレビ番組にも出演して、鳥濱をモデルにした歌謡曲「基地の母」(歌唱:菊池章子)も発売されて、トメと「特攻基地知覧」の名前は全国に知れ渡った』と記されています。鳥濱トメの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。
鳥濱トメが有名になることで、特攻隊の美談が一層、引き立つことになったのです。鳥濱トメの名前を広めたのが、作家の高木俊朗(1908年-1998年)です。wikiには『高木俊朗は、日本の映画監督、脚本家、ノンフィクション作家である。東京生まれ。1933年早稲田大学政治経済学部卒業、松竹蒲田撮影所に入社、清水宏に師事。その後、富士スタジオ、日本映画社に勤務。1939年から陸軍映画報道班員として、日中戦争に従軍し、記録映画を製作した。
太平洋戦争中、1942年に陸軍航空本部映画報道班員として、マレーシア、インドネシア、タイ、仏印などに従軍。映画報道班員としての体験をもとに、新聞や放送の発表と現実の戦況の違い、戦場の苛酷なありさまの見聞等々、インパール作戦の悲惨さを明らかにして陸軍指導部の無謀さを告発することを決意した』とあります。高木俊朗は、インパール作戦五部作を刊行しており、インパール作戦の裏の目的や真実を隠蔽する役割だったと感じます。
そもそも、従軍記者は、大本営の意向に沿って、戦争の真実を隠すための役割と見ています。高木俊朗の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「創価。工作員」と伝えられました。やはり、大日本帝国軍のトップである天皇と大本営を守る役割の工作員でした。「知覧特攻平和観音像」などの慰霊施設は、その後、知覧基地跡地に整備されていた運動公園に休憩所を新築、その2階を特攻隊員の遺品や遺書を展示する「知覧特攻遺品館」として整備されます。
さらに、「知覧特攻遺品館」から「特攻平和会館」の建設に移ります。wikiには『1985年になって「知覧特攻遺品館」が手狭となったため、知覧町が5億円の予算を投じて「知覧特攻平和会館」を建設、「知覧特攻遺品館」の事務局長であった板津忠正が初代館長に就任した。老朽化した「特攻平和観音堂」も2004年に改築され、隣接する運動公園を含めて「知覧平和公園」として整備されて、南九州市有数の観光スポットとなった。
公園内の球場や陸上競技場などの施設は様々なスポーツ大会で利用されている。また、公園内には600本の桜が植樹され、満開の時期は夜間にライトアップされるなど、絶好の花見スポットとなっており、映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」のワンシーンにも使用されている。来館者数は「知覧特攻平和会館」にリニューアル後は増加の一途をたどり、平和学習として全国から多数の修学旅行生も訪れた。
2019年に世界最大の閲覧者数を擁する旅行口コミサイトであるトリップアドバイザーが発表した「日本の美術館・博物館ランキング2019」では博物館部門で日本国内1位となった』と記載されています。知覧特攻平和会館の初代館長の板津忠正(1925年-2015年)は、第213振武隊として知覧飛行場から特攻出撃するも機体の故障で不時着し九死に一生を得た、元特攻隊員で元名古屋市役所職員です。
板津忠正の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「分からない」と伝えられました。個人的には、工作員だったと感じます。亡くなった特攻隊員の慰霊施設のはずの「知覧特攻平和会館」は観光の目玉となり、金集めのための人集めのイベントパークになったのです。現実は、特攻隊の戦没者の慰霊を名目にした金儲けです。特攻隊という隠された金のための松取りの闇が引継がれて、今に至っています。
「天皇陛下のため、お国のため」と戦地に赴いて、亡くなった純粋な若者たちは、どう思うのでしょうか。戦争は、人命を犠牲にした暗黒集団の金儲けです。多くの人たちが、悲劇の美談という嘘の話に騙されて暗闇を経験っして来ました。真実が隠されている限り、汚いエゴの闇は続きます。もう、嘘で固めた闇の世を終わりにしなければなりません。命を失った特攻隊員の若者たちの魂が光に還るよう光を降ろしました。エゴと金による工作の暗闇が終わりになることを願っています。(おわり)