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明治元年に幕府軍艦「咸臨丸」が襲撃された時、乗組員の遺骸を清水次郎長が手厚く埋葬したとされるのが「壮士の墓」です。グーグルマップで「壮士の墓」を調べると「巴川(ともえがわ)」の川沿いに置かれていました。巴川の対面には「清水次郎長生家」があります。《ハローナビしずおか 静岡県観光情報》には清水次郎長と壮士の墓について、『山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)はその義挙に感激し「壮士の墓」という墓碑銘をおくった』と記されています。

 

山岡鉄舟は、清水次郎長を仕立てて、壮士の墓をつくった工作に関わっていると感じました。山岡鉄舟-Wikipediaには『山岡鉄舟(1836-1888)は、江戸の生まれの幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家。剣・禅・書の達人。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着いた。

 

単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長62(188センチ)、体重28(105キロ)と大柄な体格であった』と記されています。過去記事の《洗足池の畔に邸宅を持ち江戸城無血開城を成遂げた勝海舟の裏の顔》から「江戸無血開城」そのものが仕組まれたものと捉えています。

 

徳川幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛は裏で手を握っていました。勝海舟は米国派(ロックフェラー)、西郷隆盛は天皇派(ロスチャイルド)の工作員としての立ち位置ですが、戊辰戦争の時と同様に戦わせて松取りという利益を得る同和勢力として組んでいたのです。駿府で勝海舟の手紙を西郷隆盛に手渡したとされる山岡鉄舟も、工作員です。慶応4(1868)313日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも、山岡鉄舟は立ち会っています。

 

剣術の才能がある山岡鉄舟が結成した浪士組は、新徴組、新選組の前身です。新選組は、尊王攘夷、倒幕活動から京都を守るために会津守護職と共に活動していた部隊です。実質的に、戦乱の中で松取りを行う実働部隊だったと見ています。鎌倉時代の武家集団・諏訪神党に代表されるように、松取りの現場の仕事とガードマンを司るのが武士の原点です。それが今日の反社の源流の1つになっています。そういう意味で、山岡鉄舟は裏世界の現場仕事を担っていたと言えます。

 

私単独で、山岡鉄舟の御魂が上がるよう光を降ろしました。「壮士の墓」と「清水次郎長生家」が「巴川」の対面に置かれていることから、「巴川」を封じる役目をしていると感じました。《日本姓氏語源辞典・人名力》には、苗字の「巴川」の名前の由来が「渦巻く川」とあります。《松取りに繋がる東京目黒の地と原発の存在がフェイクであるという直感》から、「巴」の家紋は、3つの6が渦状にあり、666の悪魔崇拝と渦巻を現していると見ています。

 

渦巻のエネルギーは、カタカムナの術で、真実を隠す闇のエネルギーです。巴川は、文殊岳(1041m)を水源とする静岡市葵区、駿河区、清水区を流域とする二級河川です。《しずおか河川ナビゲーション》には、巴川には河童伝説があり、河童にちなんで橋が「稚児橋」と名づけられたと記載されています。過去のヒプノセラピーでは「河童」は「亀」と同様に、地底と地上を出入りする存在と伝えられました。「稚児」のワードから地下で生贄が行われていたと感じます。

 

本来、水が生まれる光の地底を松取りで闇にされた場所です。有史以前の巴川流域は、古麻機湾という深い入り江だったといいます。巴川の源流と巴川に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。巴川から、私のサラリーマン時代に縁のあった「巴川製紙所」を思い出しました。wikiには『株式会社巴川製紙所は、機能紙事業、電子材料事業、トナー事業、セキュリティメディア事業などを手がける企業である。

 

かつては電気絶縁紙や電気通信紙などの特殊紙を得意とする製紙会社であったが、事業の主体を電子材料製造などのエレクトロニクス部門に移している。1914(大正3)-井上源三郎により、現在の静岡県静岡市清水区に巴川製紙所を創設。1917(大正6)-株式会社巴川製紙所設立。社名は清水工場付近を流れる巴川に因む。1933(昭和8)-用宗工場(現・静岡事業所)操業開始』と記載されています。創業者の井上源三郎を調べました。

 

井上源三郎-Wikipediaには『井上源三郎(1829-1868)は、新選組の六番隊組長。武蔵国日野宿北原(現在の東京都日野市日野本町)にて、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として生まれる。兄・松五郎は千人同心。弘化4(1847)頃、天然理心流の三代目宗家・近藤周助に入門。佐藤彦五郎が天然理心流の出稽古用に設けた道場で土方歳三らと共に稽古に励んだ』と記されています。最初、巴川製紙所の創業者は、新選組の井上源三郎と思いましたが、時代が異なります。

 

しかし、巴川沿いの壮士の墓、清水次郎長生家から新選組の源流である山岡鉄舟に繋がっていたことを考えると、新選組の井上源三郎と巴川製紙所の創業者の井上源三郎は何か関係していると見ています。例えば、名家の当主は「初代」「二代目」いう風にして同じ氏名を使っている場合があります。巴川製紙所のwikiの主要株主には、『SMBCCP投資事業有限責任組合116.3% 凸版印刷()9.3% 栄紙業()5.4% 鈴与()4.0%』とあり、「鈴与」に着目しました。(つづく)