Marufuku_1943_Yamashita_Gold


フィリピンの戦い(1944-1945)の指揮官だった陸軍大将・山下奉文は、統治に際しては「バナナ・ノート」と呼ばれる軍票を発行しました。西日本新聞によると『「バナナ紙幣」。1942年、英領シンガポールを占領した日本軍が現地の通貨に替えて発行した軍票のことだ。バナナの図柄だったのでその名が付いた。敗戦で日本軍が撤退すると軍票は紙切れ同然に。ただで手に入るバナナの葉と重ね、「バナナ紙幣」と言えば価値もないものを指すようになったそうだ』と記されています。

 

軍用手票-Wikipediaには、『軍用手票とは、戦争時において占領地もしくは勢力下にて軍隊が現地からの物資調達及びその他の支払いのために発行される擬似紙幣である。政府紙幣の一種と解されることもある。略して「軍票(ぐんぴょう)」と呼ぶことが一般的である』とあります。また、《旧日本軍統治下の紙幣「Banana Note」》には、『旧日本軍統治下の紙幣、「Banana Note」バナナノートというものをご存じだろうか。

 

よしもと ばなな(1964724日生まれの小説家)のブログ日記、「バナナノート」のことではなく、第2次世界大戦(或いは、大東亜戦争)当時、旧日本軍が侵攻占領した、シンガポール、マラヤ、ボルネオ島北部地域で、大日本帝国政府が発行した10ドル紙幣のことだ。なぜ、「バナナノート」(banana Note)と呼ばれるかだが、画像でご覧のとおり、紙幣のまん中に「バナナ」の絵が描かれており、紙幣のことを英国英語で「ノート」と言うからだ』と記されています。

 

旧日本軍が占領した植民地で、物資調達のために作った疑似紙幣に、何故、バナナの絵柄を施したのかが問題です。《東京目黒にあった蓮舫の生家・台湾バナナ御殿が暗示するバナナを隠れ蓑にした巨額利権》にありますが、「バナナ」というと、立憲民主党の参議院議員・蓮舫の祖母・陳杏村(ちんあんそん)が始めた台湾バナナ輸入事業からの台湾バナナ利権が思い浮かびます。陳杏村は、上海の旧日本軍高官と親密な関係を構築しており、軍の仕事を請負って巨利を得ていたのです。

 

当該記事には、『第二次世界大戦中に台湾から上海に渡った。当時を知る年配者の記憶によると、陳杏村は並の女性ではなかったという。孤立無援の時期に、彼女は上海駐屯の日本軍高官と親密な関係を築き、上海南洋煙草公司の総代理、英米煙草公司総販売などの利益の多い事業の経営権を得た。戦時中、陳杏村は個人の名義で日本軍に2機の戦闘機を献納した』とあります。バナナ・ノートは、バナナを隠れ蓑にした松取り・食人の松利権網に関係していると見ています。

 

バナナは、台湾と同様に、フィリピンの特産物でもありました。ある意味、「バナナ」は、松利権の隠語として用いられていた可能性を感じます。大日本帝国軍が目指した大東亜共栄圏における松利権網の構築・拡大です。大東亜共栄圏のwikiには、『標語:八紘一宇(はっこういちう) 設立:1940年 設立者:大日本帝国、満洲国、 南京国民政府、フィリピン、タイ、ビルマ国、自由インド 解散:1945年 目的:欧米の植民地支配からのアジア諸国の独立 本部:東京 会員数:7ヶ国』と記されています。

 

大東亜共栄圏には、表と裏の目的があり、表は東アジアにおける経済共同体・集団安全保障の名目ですが、裏は、松・食人利権という裏経済ブロックの構築なのです。wikiに掲載された大東亜共栄圏の地図を見ると、その中心に台湾があります。日本が、裏の松利権網構築のために、中心拠点としての台湾を作ったことが理解できます。フィリピンの戦いの陸軍大将・山下奉文で、有名なのが「山下財宝」の伝説です。wikiには、『山下財宝とは、山下奉文大将率いる日本軍によって、終戦時にフィリピンに埋められたとされる莫大な埋蔵金についての都市伝説。

 

フィリピンで一般的に語り継がれている伝説では、「東南アジア(主にビルマ)の欧米諸国の植民地政府が貯蔵したまま放置した金塊を、これらの地を占領した日本軍が徴発、シンガポールからフィリピンで中継し日本本土に海上輸送しようとしたが、連合国軍の潜水艦や航空機による日本と東南アジア間の海上輸送路への攻撃が激しくなったために、フィリピン内に隠しておいて日本の敗戦の直後に引き上げようとしたところ、関係者が戦犯として連合国軍により処刑されたため在処の情報が失われた」とされている。

 

フィリピンの華僑系財閥から物資調達の協力を得るために、日本から送られたマル福(円形の金貨に「福」の字が刻印されているため)と通称される特製の金貨だった。山下大将の前任者である黒田重徳中将が軍司令官だった1944(昭和19)2月に、日本本土から空輸されたという。その総数は金貨二万五千枚と言われ、そのサイズ・品位は、直径:30.54mm 重量:31.0g 品位:24K (1000)とされており、受取った相手も贋物を警戒して鋳潰すか、圧延してしまうと予想されたため、極めてシンプルなデザインだった。

 

25千枚の丸福金貨は、第14方面軍司令部のおかれたマニラに保管された。1945(昭和20)1月のアメリカ軍ルソン島上陸後、約15千枚は方面軍司令部の転進に伴ってバギオへと輸送された。その後、バギオからも撤退する際にさらに北部の山中に移送されたものと推定されるが、堀によると輸送関係者が全滅しており、詳細は明らかでない。20091月現在の金価格から換算すると、金775kg≒20億円程度であるため、フィリピン駐留日本軍40万人の糧秣調達に限定しても5,000/人程度である。

 

アメリカ軍上陸を前にして諸物価が暴騰していた1944年当時のフィリピンでは、短期決戦ですら焼け石に水程度の効果しか期待できなかっただろうと推察されるという意見がある』と記載されています。また、フィリピン元大統領夫人のイメルダ・マルコスによる山下財宝の発掘についても言及されています。『1992年に、大統領時代の不正蓄財の嫌疑をかけられたフェルディナンド・マルコス元大統領夫人のイメルダ・マルコスは、「夫は山下財宝を発掘して財をなした」と主張した。

 

それによると、「1945年に結婚前のフェルディナンドは金の一部を売るために渡米し、1960年代から1970年代にかけての経済困難から国を助けるために、金の販売益を国費に投入した。また、夫が残りの金をルソン島北の彼らの家の壁を含むいくつかの場所に隠した」と述べている。この主張をフィリピン政府は本気で受け取らず、そのために否定も肯定もしていない』と記されています。マル福金貨は、フィリピンの戦いの裏で遂行された松の収穫の資金として利用されたと感じます。

 

旧日本軍の大本営は、現場トップの山下大将を通じて、フィリピン支配層への裏金や利益分配、松の収穫現場の作業員への対価として金貨を使ったのです。《uriel》には、マル福金貨の製造元が「石福商店」とあります。『当時、石福商店は大阪造幣局の指示で、丸福金貨を製造したとの証言を得ることができたのです。それまで謎だった製造元はこの証言のおかげで石福商店と判明しました。また、製造地については、石福商店は上海に工場があり上海で製造されていたという説もあります』。

 

石福商店を調べると、1930年創業の「石福金属興業株式会社」として現在も存続していました。公式サイトには、『19302月東京神田に村田商店を創業し、貴金属地金の販売、精製加工業を始める。19384月上海に出張所を開設。中華民国および南方方面で貴金属の回収事業を行う』と記載されています。マル福金貨は、石福商店の上海工場で作れたと思います。中国・上海は、陳杏村が関係した旧日本軍高官と駐屯地であり、台湾建国に際して重要な工作拠点だったと感じます。(つづく)