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3()、朝起きると「広瀬」の苗字とサラリーマン時代の後輩の顔が記憶に残っていました。会社時代の後輩・広瀬の夢を見ていたようでした。前日も広瀬の夢を見ていたので、2日続けて同じ夢を見るのは何か意味があると思いました。これまでの経験では、夢でワークのヒントを与えられていました。昨年4月には、会社の後輩の「大山」の夢を見た時には、薩摩の大山巌(おおやまいわお)の関連ワークに繋がりました。「広瀬」の苗字の人物だと捉えてネットで調べていきました。

 

広瀬氏のWikipediaには、『【清和源氏武田氏族】影房流(彦根藩士):甲斐武田家が長篠の戦いで滅びたのち、廣瀬景房は徳川家康に取り立てられ、井伊直政付きとなった。江戸時代は、彦根藩士となった。正直流(日田商家):先祖は、甲斐国武田氏重臣の板垣氏または山県氏家臣、広瀬郷左衛門尉景房の弟広瀬将監正直とされる。初代広瀬五左衛門貞昌は、1673(延宝元年)に博多から天領であった豊後国日田(現在の大分県日田市)に移り、掛屋「堺屋」を開業。後に屋号を「博多屋」とした。

 

 咸宜園を開いた淡窓をはじめ、その子孫に、儒学者、俳人が多く出た。月化・桃秋(三郎右衛門の号)・淡窓・秋子・南陔(久兵衛の号)・旭荘・青邨・林外は、広瀬八賢と称される。また、淡窓のあとを継いだ旭荘・青邨・林外は、三広と呼ばれる。 近現代においては、元郵政相の広瀬正雄や富士紡績社長となった広瀬貞雄、大分県知事の広瀬勝貞など政界、経済界に名を残す』と記載されています。広瀬氏は、松取り工作員の源流である甲斐武田氏から派生してきていました。

 

武士が帯刀するのは、貴族の荘園における松取りの現場仕事と守護の役割があったからだと見ています。夢の「広瀬」のヒントは、「大分県知事の広瀬勝貞」だと感じました。広瀬氏のwikiの著名な人物の欄には、『広瀬勝貞-大分県知事、元経済産業事務次官』と記されていました。経済産業事務次官は、経済産業省の官僚のトップです。経済産業省(旧・通商産業省)は、原発利権を握っている監督官庁です。表の原発利権は裏の松利権ですので、広瀬勝貞・大分県知事は力のある人物です。

 

赤ちゃんポスト開設者の坂本志麻から繋がる「おおいた子ども支援ネット」と青年海外協力隊》にありますが、大分県は、北海道当別町の赤ちゃんポスト開設者・坂本志麻と「おおいた子ども支援ネット」で繋がっていました。当別町に赤ちゃんポストを開いた坂本志麻は、大分県知事など大きな松利権を持つバックがいると推測できます。Wikipediaによると広瀬勝貞の経歴は、『広瀬勝貞(1942-)は、大分県日田市生まれの通産・経産官僚、政治家。大分県知事(5期目)

 

中央省庁再編時に通商産業省で事務次官を務めており、最後の通商産業事務次官かつ初代経済産業事務次官であった。日田市長、郵政大臣を歴任した広瀬正雄を父に持つ。東京大学法学部第2(公法コース)卒業後、1966年通商産業省に入省(石炭局炭政課配属)1976年より外務省に出向し、在スペイン日本大使館に赴任。1991年、宮澤喜一内閣総理大臣の秘書官に就任。宮澤の退陣後は通産省へ戻り、19999月より通商産業事務次官に就任。2001年の中央省庁再編に伴い、初代経済産業事務次官に就任した』とあります。

 

広瀬勝貞は5期目の大分県知事に就いており、松利権網の重要工作員だと感じます。wiki人物の欄には、『江戸時代の儒学者である広瀬淡窓の弟・広瀬久兵衛の子孫。父は日田市長・郵政大臣を務めた広瀬正雄、兄弟に富士紡績の社長を務めた広瀬貞雄、テレビ朝日の顧問で日本民間放送連盟の前会長でもある広瀬道貞、興銀証券常務の広瀬興貞がいる。自由民主党に所属する林芳正参議院議員は妻の甥にあたる』と記されています。広瀬勝貞の父は日田市長・郵政大臣を務めた広瀬正雄です。

 

日田市の広瀬氏は古くから松利権を支配していた一族だと見えます。大分県知事・広瀬勝貞に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「上級の同和」と伝えられました。広瀬勝貞の父・広瀬正雄(1906-1980)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「日本DS」と伝えられました。また、広瀬一族の先祖で大物工作員だと睨んだのが「広瀬淡窓(ひろせたんそう)」です。wikiには、『広瀬淡窓(1782-1856)は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。豊後国日田の人。

 

末弟に広瀬旭荘、弟・広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その息子の広瀬勝貞は現大分県知事。文化2(1805)には豆田町にある長福寺の一角を借りて初めの塾を開き、これを後の桂林荘・咸宜園へと発展させた。咸宜園は淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30(1897)まで存続、運営された。塾生は日本各地から集まり、入門者は延べ4,000人を超える日本最大級の私塾となった』と記されています。

 

広瀬淡窓が開いた全寮制の私塾・咸宜園(かんぎえん)は、江戸時代、日本最大級の工作員養成所だったと感じます。塾出身者には、高野長英や大村益次郎、清浦奎吾、上野彦馬、長三州、横田国臣、松田道之などがいます。《裏世界の利権を支配していた同和派》に書いていますが、写真家で日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)でもあった上野彦馬は、薩摩の裏の闇を隠すために、写真を利用して坂本龍馬をヒーローに仕立てた工作員だと分かっています。

 

広瀬淡窓の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「宇宙人」と伝えられました。やはり、闇の役割の工作員を育てるために、素の人間ではなく闇の叡智を授けた宇宙人のようでした。咸宜園があった大分県日田市は松取り場所です。グーグルマップで見ると、四方を山に囲まれた盆地になっています。こうした盆地は、水が湧く大事な光の地ですが、離れ小島のような環境であるために、大事な光を封印するための松取りや食人の闇の拠点として格好の場所になります。(つづく)