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精機光学研究所(現・キヤノン)でカメラの開発を個人的に指導し、二・二六事件に関与して禁固刑に処された陸軍軍人・山口一太郎は、萱場製作所(現・KYB)に技術部長として就職しました。工作員である山口一太郎が入社した萱場製作所についても調査とワークを進めることにしました。wikiには、『KYB株式会社(ケイワイビー)は、自動車部品・鉄道車両部品・航空機部品・建設機械部品・産業機械部品・特装車・建設機械・産業機械・免震装置・試験装置及び各種油圧システム製品を製造する日本の株式会社である。

 

2005101日より「KYB」ブランドを通称社名とし、2015101日より商号もカヤバ工業株式会社からKYB株式会社に変更した。芙蓉グループに所属。二輪車、四輪車用ショックアブソーバーおよび油圧ショベルに代表される建設機械用油圧機器の大手企業。航空機用および船舶用油圧機器なども手がける。コンクリートミキサー車の架装でも国内最大(国内シェア約80%)。また、近年環境、防災、福祉関連製品にも注力している。ショベル用油圧シリンダーおよびショックアブソーバーのグループ総生産本数は世界最大規模。

 

ショックアブソーバー:日本におけるシェアは、約65%で第1(20076月時点)1950年代には70%に達しており、その後も常に50%以上となっている。太平洋戦争時には、零戦など戦闘機向けのショックアブソーバー(降着装置のオレオ)を生産しており、その経験を買われ、戦後自動車メーカーがKYBに製品の開発と生産を依頼した。世界におけるシェアは、約22%で第2位となっている(20076月時点)』と記されています。KYBは、旧日本軍の零戦など戦闘機の開発にも関係していました。

 

旧日本軍は、松利権の支配・拡大のための戦争を行ってきたので、KYBも松利権網の闇に関係している可能性が高いと感じます。KYBの創業者は萱場資郎(かやばしろう)です。公式サイトによると『KYBの創業者である萱場資郎は、非凡な才能を持つ発明家であり、自由を愛し、頼ることを潔しとしない独創精神の持ち主でした。1919年、資郎はわずか21歳で「萱場発明研究所」を創業。設立時には「本所は宇宙の秘をさぐり独創的発明考案によるご奉公を計ると共に、世界全人類の道徳的恒久平和の達成に寄与するを以て目的となす」と宣言し、人類の平和に貢献する道を探っていました。

 

しかし、1923年の関東大震災で研究所が消失。資郎は海軍の技術者になり、油圧や空気圧で甲板上の機器をリモートコントロールする「航空母艦発着艦装置」の実用化を成功させます。そして、1935年に萱場製作所を創立し、自動車用ショックアブソーバの前身となる航空機用の「油圧緩衝脚(オレオ)」を発明。この発明が何トンもの力がかかる機器を正確に制御し、振動を最適に吸収する今日のKYBの油圧技術に繋がっています』とあります。航空機用の油圧緩衝脚(オレオ)の発明は、非常に重要でした。

 

航空機用の油圧緩衝脚(オレオ)の発明から、自動車用ショックアブソーバや油圧ジャッキをはじめ、建設機械、産業機械用のギヤポンプ、パワーステアリング、コンクリートミキサなどの特殊車両、航空機部品の製造に繋がっていきます。KYBの創業者・萱場資郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「闇の叡智と繋がれる人。魔法使い。オーディン系」と伝えられました。闇の叡智と繋がれる人間でないと、オレオのような移動・運搬ツールの核となる機械の大発明は出来ないと思います。

 

KYBの代表取締役社長執行役員・大野雅生と本社所在地(東京都港区浜松町 世界貿易センタービル)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」「いいです」と伝えられました。wikiに載っているKYBの国内拠点16箇所の内、岐阜県に工場などの拠点が6つ、神奈川県相模原市に3つあり、集中していることが目につきます。また、海外拠点は、23か国・52箇所の拠点を有しており、トヨタ自動車も大株主(7.7%)であることから、裏の松利権ネットワークを有していると感じます。

 

KYBwikiには、「浅野良三(元社長)」の名前が記載されており、浅野良三についても追いました。wikiによると、『浅野良三(1889-1965)は日本の実業家。浅野財閥創始者浅野総一郎の次男、父の死後に兄の浅野泰治郎が財閥総帥の座についたが、浅野良三が実質的に財閥を運営した。背が高く容姿端麗。英語がペラペラで才気煥発野心満々で経営手腕も優れていた。1889(明治22)に浅野財閥創始者浅野総一郎の次男として生まれたが、「天下無敵の乱暴者」で何度も父から勘当だと怒られた。

 

開成中学(旧制)を卒業して一橋大学を受験したが、苦手な英語の問題が全く解らなくて、自作の都々逸を書いて出したが不合格になった。そこでハーバード大学に留学した。1912(明治45)にハーバード大学を卒業して、フランクリン・ルーズベルト(後の第32代アメリカ大統領)の妻の弟と同窓(同じ大学の卒業生)になった』と記されています。浅野財閥は、浅野総一郎が設立した財閥で、十五大財閥の一つに数えられました。浅野セメントを中核とした多業種に渡る企業を設立しました。

 

セメント関連・造船・製鉄金属・商社・爆薬・埋立築港・不動産・海運・炭鉱鉱山・鉄道バス・銀行・電気電力・林業製材・紙・ガスコークス・石油・窯業などの多業種に多くの会社を有していました。浅野財閥の創業者・浅野総一郎は、過去の別の調査を通じて、自分の過去世と縁がある人だと分かっていました。また、サラリーマン時代に勤めていた会社の上司(役員)の過去世であることに気づきました。サラリーマン人生を卒業するために自分の背中を押してくれた感謝すべき人でした。

 

浅野総一郎のwikiには、『浅野総一郎と同郷である安田善次郎率いる安田財閥(金融財閥)との強いつながりが生まれ、同財閥の産業部門的な性格を有していた。徳富蘇峰はこの関係を、浅野はエンジン、安田は石炭(当時は石炭が燃料だった)とたとえた。浅野財閥は、安田財閥からの資本に依存していたが、安田財閥が資金を出したのは、浅野総一郎や一族の経営能力を高く評価したからである』と記載されていました。安田財閥の創業者・安田善次郎も会社時代の直属上司の過去世であることを知っていました。

 

浅野総一郎と安田善次郎は共に、越中国(現・富山県)出身であり、この2人が現在の加賀(石川県・富山県)中心の松システムの構築に大きな貢献をしてきたと感じます。今世、自分の横浜市など神奈川の地との縁が深かったのは、浅野財閥の創業者・浅野総一郎との過去世でのカルマの解消のためだったと見ています。浅野財閥の創業者・浅野総一郎(1848-1930)と次男の浅野良三(1889-1965年・KYB元社長)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「日本DS」「術師」と伝えられました。(つづく)