1200px-Shimotsui_Castle_6


8
20()の夜、ブログ記事を書いているとお腹に痒みを覚えて、腹部を見ると3つの湿疹が出来ていました。3つとも身体の左側でした。1つはへその左下辺り、もう2つはみぞおちの左側に平行に並んでありました。ワークの場所を示すサインだと感じて、壁に貼ってある大きな日本地図を見ながら、どこの場所なのかを内観してみました。京都・大阪・兵庫の地域に2つ、広島・岡山の地域に1つだと感じました。3つの湿疹は逆の二等辺三角形を描いていました。あとは、テーマが何かが問題です。

 

その日は、韓国の養子縁組の歴史や日本の里子制度について調べていたので、関係するテーマは、やはり子供関係だと思いました。子供は、精霊のようなエゴが混じらない純粋な光を持つ存在なので、暗闇にするためには子供の魂の光を封印する必要があります。子供の松取り(松果体収穫)が暗闇にするための土台になると感じています。ネット検索する場合のキーワードは、「日本の児童福祉×著名人」にしました。ネットで調べると《保育士試験で問われる日本人と、日本の児童福祉施設の歴史》を見つけました。

 

そこには、『石井十次・留岡幸助・石井亮一・糸賀一雄・赤沢鍾美・野口幽香/森島峰』の名前が記載されていました。まず、「石井十次」について調べていきました。Wikipediaには、『石井十次(いしいじゅうじ:1865-1914)は、明治期の慈善事業家で、岡山孤児院を創設した人物である。その功績から、「児童福祉の父」と言われる。アリス・ペティ・アダムス、留岡幸助、山室軍平とともに「岡山四聖人」と称される。 彼は岡山で医師を目指して、岡山医学校(現在の岡山大学医学部)の医学生として研修中であった。

 

しかし、生活に困窮する母親から子どもを預かったことをきっかけに孤児教育会を設立する。その後、預かる子どもの数が増え、育児事業に専念するために医師として働くことを断念した。そして英国のキリスト者のジョージ・ミュラーをモデルにして、キリスト教信仰に根ざした岡山孤児院を創設して、生涯を孤児救済に捧げた。 岡山孤児院はすでに存在しないが、その流れをくむ石井記念友愛社(宮崎県)と愛染橋保育所(大阪府)が、各種の福祉活動をおこなっている』と記されています。

 

 石井十次の経歴で目につくのは「キリスト教徒」であることと、腎臓病を患って48歳の若さで他界していることでした。石井十次の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「牧師系。悪魔崇拝」と伝えられました。石井十次は、深い闇の環境をつくるために闇の役割を担っていました。次に、石井十次がつくった 岡山孤児院の流れを汲む石井記念友愛社(宮崎県)と愛染橋保育所(大阪府)を調べました。石井記念友愛社の公式サイトには、施設概要が記載されていました。

 

『児童養護施設・乳児院・児童家庭支援センター8箇所 保育所、幼保連携型認定こども園10箇所 老人デイサービスセンター・居宅介護支援事業所2箇所 障がい者就労支援B型事業所1箇所 障がい者共同生活援助介護事業所3箇所 資料館、石井十次の会(石井記念友愛社後援会)2箇所 合計:26箇所』とあります。また、『「石井記念友愛社」について』には、『「友愛の地域社会つくり」を目指して』には『私たち石井記念友愛社は、明治時代、まだ「福祉」の概念も乏しかった時代、孤児院をつくり、児童福祉の父と呼ばれる石井十次の築いた福祉文化を受け継いでいます。

 

基本理念の「天は父なり 人は同胞なれば 互いに相信じ 相愛すべきこと」のもと、自然主義、家族主義、友愛主義、自律主義を基本目標に、児童養護施設、乳児院、保育所、老人デイサービス、居宅介護支援、障碍者就労継続支援などの事業を展開しています。福祉施設が縦割り社会のなかで個々に働くのではなく、関係機関や地域住民と一体となりながら、様々な社会資源と連携して、年齢や障害の有無を超える大家族的共生社会の実現を目指します』と記載されています。

 

『「石井記念友愛社」について』の下に「ご支援のお願い」書きがありました。これまでの調査とワークから、福祉関係団体や慈善団体の公式サイトは、支援金を要請することが日常的になっていると分かっています。弱者を全面に出して資金を募る「同和」の手法です。裏の暗黒の闇を隠すために表を繕うことをするのです。社会福祉法人石井記念友愛社の理事長は児嶋草次郎です。《致知出版社》によると児嶋草次郎の経歴は、『児嶋草次郎 こじま・そうじろうー昭和24(1949)年宮崎県生まれ。

 

石井十次の孫・虓一郎の次男。48年明治学院大学卒業後、社会福祉法人石井記念友愛園で児童指導員となる。同園長を経て、平成3(1991)年より社会福祉法人石井記念友愛社(宮崎県)理事長』と記されています。石井記念友愛社の理事長・児嶋草次郎と本部所在地(宮崎県児湯郡木城町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」「地下でやっている」と伝えられました。創始者の石井十次からの隠された松利権の闇を引継いでいるようです。愛染橋保育所(大阪府)についてはwikiがありました。

 

『愛染橋保育所は、1909年にキリスト教徒で社会事業家の石井十次(1865-1914)によって設立された、大阪ではじめての保育所。石井は、1890年に岡山孤児院を設立し、愛染橋保育所は当初は貧民街であった大阪市南区日本橋筋東二丁目の高津入掘川にかかる愛染橋のたもとに「岡山孤児院附属愛染橋保育所並びに同夜学校」として開設された。幼児がいるために働けない貧困者の救済と、貧困のために通学できない子どものための夜学校である。1914年石井の死後、経営困難に陥り、一旦閉鎖を余儀なくされた。

 

しかし、石井から大きな感化を受けた倉敷紡績の社長大原孫三郎の基金によって財団法人石井記念愛染園が設立され、1918年に石井記念愛染園として再生し現在(2021年現在)も存続している。1945年、空襲で消失したが、その後復興し、現在は社会福祉法人石井記念愛染園 愛染園保育園として、大阪府大阪市浪速区日本橋東2丁目で保育を行っている』とあります。財団法人石井記念愛染園公式サイトには『財団法人石井記念愛染園は1917年に設立されました。前身となる託児所、夜学校を開設した石井十次の遺志と理念を受けて、大原孫三郎が創設したものです。

 

大原孫三郎は、当時の倉敷紡績の経営者であり、岡山県倉敷市にある大原美術館の開設者としても知られています。当園は、公的な社会保障制度が未整備な時代に、大阪の地に社会福祉の先達となり、すでに100年を超える歴史を有しています。長く事業を継続することができていますのは、携わってきた先輩諸氏の多大な尽力に加えて、地域社会の皆様のご支援、ご協力あってのことと、改めて感謝申し上げます』と記されています。施設については、『本部1箇所、医療機関(愛染橋病院)1箇所、隣保事業(愛染橋保育園等)6箇所、介護事業10箇所 合計18箇所』とあります。

 

財団法人石井記念愛染園の理事長・藤井信雄は、ネット情報によると元クラレの役員です。石井記念愛染園の理事長・藤井信雄(1950-)と本部所在地(大阪府大阪市浪速区日本橋)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「金庫番」「いいです」と伝えられました。財団法人石井記念愛染園の設立者の大原孫三郎(1880-1943)は、キリスト教の洗礼を受けたキリスト者でした。実業家、社会事業家であり、倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現・クラレ)の社長を務めました。(つづく)