Mt._Fuji_from_Inamuragasaki


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24()、お話会の申込があり「鎌倉の隠された歴史」をテーマでお話会を開催することが決まった後、右脇の下に痒みを覚えました。鏡で痒みの出た部分を見てみると、右脇下に円形に集中して10箇くらいの湿疹ができていました。ワークの場所を教えるサインでした。右脇の下の部分は、日本列島で言うと「鎌倉」だと感じました。タイミング的に鎌倉についてのお話会が決まった時だったので、場所は「鎌倉」に間違いないと思いました。鎌倉の何の関係かについても見当がついていました。

 

岡山の児童福祉の先人・石井十次関連の調査を行った後でしたので、「鎌倉の児童福祉」の関係だと感じました。過去のヒプノセラピー《隠された加賀の松果体システムが表に出て最後になる》では、日本の松(松果体)システムの中心が「鎌倉」から「加賀(石川県・富山県)」に移ったと伝えられていました。松取り(松果体収穫)に関して、例えば、アドレノクロムの起源となるものには、「子供」と「大人の遺体」の2つがあると見ています。品質的な面の格付けとしては「子供」の方が上位に来ます。

 

また、地球を暗闇にする闇の仕事の面からも、魂の純粋な光を持つ「子供」を生贄として封じる方が優先事項だと捉えています。「鎌倉の児童福祉」の関係する歴史上の偉人をネットで調べることにしました。検索エンジンで調べていくと《「鎌倉保育園」における保育事業の歴史》を見つけました。鎌倉保育園(現・鎌倉児童ホーム)の設立者の佐竹音次郎の福祉事業の歴史について書かれていました。その書き出しには『1.腰越保育院(18961905) 鎌倉保育園(現鎌倉児童ホーム)は、1896(M29)年、佐竹音次郎が「腰越医院」に併設した「腰越保育院」に始まる。

 

腰越医院の開業は 1894年、その翌年に結婚した同郷(高知県幡多郡下田)の沖本くまとともに、 保育院の運営に力を注いだ・・児童養護施設に「保育院」と名付けたのは音次郎が初めてであった。当時の孤児院は 5 歳以上の児童を対象とした 施設であったが、「三つ子の魂」という言葉があるように、 音次郎は乳幼児期の愛育が大切であるとの信念で乳児から引き取った。孤児も一旦引き取って我が子として養育するのだから、もう孤児ではないと、実子と全く同様にはぐくみ育てた。

 

また、子供たちだけでなく不幸な婦人や老人たちもひきとり、「院は一つの家族」という考えで腰越保育院 を運営した』と記されていました。この資料で注目した点が、佐竹音次郎が医師であり、キリスト者であったことです。そして、鎌倉保育園だけでなく、当時の海外の日本の植民地だった、中国の旅順・大連・北京、朝鮮の京城(ソウル)、台湾の台北にも支部を置いて福祉事業を展開していたことです。佐竹音次郎が単独で行った大規模な福祉事業ではなく、日本の支配層の八咫烏が関係していると感じます。

 

大日本帝国軍が、戦争を通じてアジア圏に構築する計画の「大東亜共栄圏構想」という松利権網の一端を佐竹音次郎は、表に立って現実化していったと見ます。日本の敗戦後の佐竹音次郎の海外の福祉事業については、次のように書かれています。『〈敗戦と海外支部の閉鎖〉だが 1945 年、敗戦とともに海外の全支部は閉鎖を余儀なくされた。各支部の創立以来の入所人員は、旅順、大連、 北京支部関係は合計798 名、京城支部は 1,104 名、台北支部の母子収容は 1,044 名、保育児は 6,880 名にも及んだ。

 

1936年、次女伸の夫佐竹昇が理事に就任した。「我は社会の厠掃除夫なり」と自任していた音次郎は、日中戦争さなかの 1940 年、77 歳で死去した。鎌倉保育園は現在も鎌倉佐助に、児童養護施設の社会福祉法人「鎌倉児童ホーム」として存在する』。コトバンクに佐竹音次郎の経歴が記載されています。『没年:昭和15.8.16(1940) 生年:元治1.5.10(1864.6.13) 明治期の教育者で、鎌倉小児保育園創設者。土佐国(高知県)幡多郡下田村に農民の子として生まれ、間引きされるところだったが助かる。

 

明治19(1886)年軍人になろうと上京するが果たせず、小学校校長などをしたのち、同26年医学専門学校済生学舎を卒業。翌年鎌倉腰越に医院開業、同29年医院内に孤児保育園を開設する。同39年鎌倉小児保育園と改称、この間、同35年に鎌倉メソジスト教会で山鹿旗之進から受洗。同38年には医業を廃して保育事業に専念。旅順、ソウル、台北などに支部を設けた。未婚の母なども引き取り、母子一体の保護を行ったことで知られる。「日誌佐竹音次郎」がある』。佐竹音次郎の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「松喰い。悪魔崇拝者」と伝えられました。

 

佐竹音次郎は、「児童福祉の父」と呼ばれる石井十次と同様に、大きな闇の役割を担っていました。佐竹音次郎が設立した鎌倉保育園の後身が「鎌倉児童ホーム」です。公式サイトには、鎌倉児童ホームの説明が記載されています。『・未来の財産である子供達がより良く育つよう、 出来る限りの方法で支援しています:総勢80名の子供達が 暮らしています。鎌倉児童ホームでは2歳から18歳の子どもたちが生 活しています。総勢80人くらいで、これは児童養護施設のなかでは大きい方です。

 

大きい建物の中に8つの家がマンションのような形であり、1つの家は10人前後の子どもたちとその家の担当の2人の先生がいます。・親元に戻れない子供達を養護する施設です:児童養護施設とは、児童福祉法によって保護者のない児童、虐待されている児童その他環境上養護を要する児童を入所させて、これを養護し、あわせて退所した者に対する相談その他の自立のための援助を行うことを目的と定められ、設立された施設です。近年、社会問題化する児童虐待の増加とともに、児童養護施設にも虐待を受けた子どもの入所が急増しています。

 

鎌倉児童ホームは、心のケアを必要とし、より特定の大人との愛着関係の再形成と信頼関係を築いていくことが重要だと考えています』。また、鎌倉児童ホームの施設概要は、『施設名:鎌倉児童ホーム 種別:児童養護施設 所在地:神奈川県鎌倉市佐助 定員:80名 施設長:加藤昌代 開設日:明治29720日』とあります。鎌倉児童ホームの正確な住所は「神奈川県鎌倉市佐助1丁目6-6-6」であり、獣数字の「666」になっています。鎌倉児童ホームの施設長・加藤昌代(前 神奈川県中央児童相談所長)と施設に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。

 

「闇。ワニ」「いいです」と伝えられました。鎌倉市佐助の地には、有名な観光名所である「銭洗弁財(銭洗弁財天宇賀福神社)」があります。《鎌倉 銭洗弁天 ~巡礼の旅(141)~》には、20149月に銭洗弁財のワークを行った時の内容を記しています。白龍と黒龍が解放され、源頼朝の御魂は源氏山公園で光に還って行きました。銭洗弁財は、洞窟の中で清水が湧出ています。湧水の地の光を封じるために洞窟で松取りが行われていたのです。それを引継いだのが、佐竹音次郎が設立した鎌倉保育園だったと感じます。(つづく)