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鈴木大拙の金沢時代の旧友で、資金援助を行った安宅産業創業者・安宅弥吉も、支配層の松利権網を構築する八咫烏の工作員として重要人物だと感じます。Wikipediaによると、『安宅弥吉(1873-1949)は、石川県金沢市金石生まれの実業家。安宅産業や学校法人甲南女子学園の創設者。大阪商工会議所会頭。鈴木大拙のパトロン的存在としても知られる。弥吉の創業した安宅産業は三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、丸紅、住友商事、日商岩井、トーメン、ニチメン、兼松江商に次ぐほどまで成長し「10大総合商社の一角」とされていた。

 

しかし弥吉の死後、同族経営の弊害が現れるなどし、1977年には安宅産業破綻として伊藤忠商事及びメインバンクの住友銀行や協和銀行の主導で伊藤忠商事との間で吸収合併がなされ、消滅することになった』と記されています。また、安宅産業のwikiには、安宅弥吉が安宅産業を創業する以前のことが書かれています。『安宅弥吉は1895年高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、日下部商店(個人商店)へ入店、香港支店支店長として赴任した。当初は香港からの米の輸入と大連向けの木材・雑貨輸出程度でした。

 

しかし、その支店の取扱商品を、砂糖、鉛、亜鉛、石炭、棉花、帆布、塗料など多数の品目に広げた。特に砂糖は、独自で有力華僑とジャワ島から砂糖の直接買い付けルートを開拓するなど、市場で名前を知られる存在となっていた。そして、単なる雇われ支店長から、日森洋行(香港支店)の共同経営者という立場になった』。これまでの調査とワークから海外拠点との貿易を行う商社などの大手企業は、表の原料・製品などの物品と裏の松(製品)を並行して取引してビジネスを行っていると捉えています。

 

安宅産業も裏の松利権を活用して会社を拡大していったと感じます。安宅弥吉の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「イルミ(イルミナティ)」と伝えられました。イルミナティは、フリーメイソン米国派の工作員でもあります。安宅弥吉の死後、安宅産業は、最終的に伊藤忠商事に吸収合併されました。伊藤忠商事を追うことにしました。wikiには、『伊藤忠商事株式会社は、東京都港区と大阪府大阪市北区に本社を置く大手総合商社。戦前は伊藤忠財閥の中核企業であった。

 

伊藤忠財閥は、多数の紡織会社を傘下に持つ繊維財閥であったため、繊維部門の売り上げは群を抜いており、かつては世界最大の繊維商社であった。傘下に有力企業を多数抱えていた。現在は祖業である繊維の他に、食料や生活資材、情報通信、保険、金融といった非資源分野全般を強みとしている。銀行との融資・資本関係としては太平洋戦争以前から旧住友銀行(現三井住友銀行)と親密であったが、戦後住友系列より徐々に離脱し、旧第一銀行(現みずほ銀行)に接近。第一勧銀グループからの流れを受けて、現在は三金会のメンバーに属している。

 

1858年、初代伊藤忠兵衛が麻布(あさぬの)の「持下り」行商を開始したことをもって創業としている。同業の丸紅とは同じ起源となっている。その後、いったん丸紅と分割されたものの、戦時中に再度合併(大建産業)、戦後の財閥解体措置により再度両社は分割され、1949年に現在と直接つながる伊藤忠商事株式会社が設立された』とあります。伊藤忠商事の源流は、麻布を売る近江商人であり、麻の光を封じる役割を成したと感じます。伊藤忠商事の創業者の初代伊藤忠兵衛(1842-1903)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 

「フリーメイソン」と伝えられました。伊藤忠商事の代表取締役会長兼会長執行役員兼CEO岡藤正広、代表取締役社長兼社長執行役員兼COO石井敬太、本社所在地(大阪本社 大阪府大阪市北区梅田)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「中国」「汚れ切っている。カネカネになった」「いいです」と伝えられました。日本の大手企業は、実質的に裏の松利権で金儲けを行っている現実があります。表の企業活動は裏の命を金に換えるビジネスための隠れ蓑になっており、深い闇になるのです。

 

826()、前日に「釈宗演」について調べた内容を纏めてPC保存していた下書がなくなっていました。確かに保存した記憶があり、不可解でした。よく思案すると「もう一度、釈宗演について調べろ」というメッセージだと思いました。また、その日の夜、会社時代の先輩「後藤さん」の夢を見ました。「後藤新平と釈宗演が関係している可能性がある」と感じました。過去のワークから、今の私は後藤新平と魂を共有していると分かっていました。後藤新平と釈宗演の関わりをネットで調べると《「釈宗演と近代日本」展(慶応義塾大学)》を見つけました。

 

『日露戦争で従軍布教師となった宗演は、精神講話、慰問、戦没者の葬儀を行った。野戦病院では敵兵にも情を抱いた。国家鎮護の円覚寺管長の使命であった。一ヶ月以上「不沐不浴。又不浣濯。土灰満頭」という状態であった。「心の平和を与ふる宗教は戦時に於いもっとも必要に候」。参禅者は、山岡鉄舟、夏目漱石、原三渓、浜口雄幸、河上肇、石栗陸軍軍医総監、藤山雷太、後藤新平、明石元二郎、九鬼隆一、平沼騏一郎、夏目鏡子、、、。 漱石28歳、宗演35歳での邂逅』と記されていました。

 

また、天来書院の公式サイトの「沿革」には、『1919(大正8)「書学院建設趣旨書」を出す。発起人として犬養毅、細川潤次朗、頭山満、大谷光瑞、樺山資紀、嘉納治五郎、日下部鳴鶴、松方正義、松平直亮、股野琢、後藤新平、小牧昌業、沢柳政太郎、三島毅、釈宗演、土方久元、粛親王が名を連ねる。以降、天来は書学院建設のために各地を遊歴する』と著名人の名前が記載されていました。満鉄初代総裁や東京市長を歴任した後藤新平は、釈宗演は繋がっていて、同じ八咫烏の工作員だったと感じます。(つづく)