320px-烏山頭水庫內深處二


表世界での釈宗演(1861-1919)と後藤新平(1857-1929)の接点は、ネットで見出せましたが、釈宗演の弟子の鈴木大拙(1870-1966)と後藤新平も関係していると感じて調べていくと《新渡戸夫人と鈴木大拙夫人の動物愛護運動》を見つけました。『日本人道会(Japan Humane Society)動物愛護運動 1915(大正4)年、日本で動物愛護運動の先駆けとなった日本人同会が生まれました。稲造とメアリーは発起人になり、小日向の自宅で会合を開きました。動物を深く愛した昭憲皇太后のお名前で、 当時の皇后陛下から活動資金が下賜されました。

 

活動メンバーは、アメリカのバーネット大佐夫人やメアリーなど 日本に住む外国人が中心で、欧米式の動物愛護精神を日本に広める という大きな役割がありました。・・日本人道会(大正五年十一月〜大正六年十月)の幹事 名誉会長 鍋島直人 名誉副会長 後藤新平 理事長 新渡戸萬里子(新渡戸夫人) 専務理事 廣井辰太郎 理事 田島道治 理事 前田多門 理事 鶴見祐輔 ほか・・一方、鈴木大拙夫人のビアトリス(Beatrice Lane Suzuki)も 動物の保護活動に精力を注いでいたことがわかっています。

 

ビアトリス夫人は、北鎌倉の円覚寺正伝庵に、犬猫のための保護施設を設けていたこと、鎌倉には、新渡戸夫妻も別荘を構えていたことから、 この二人のアメリカ人女性に接点はなかったのでしょうか。・・バーネット夫人や新渡戸夫人などアメリカ人女性が中心となって 活動したグループであり、キリスト教的背景を伴っていた』と記されています。表世界で鈴木大拙と後藤新平は、動物愛護運動で繋がっていたようです。これはキリスト教を背景とする動物愛護運動を隠れ蓑にした工作組織だったと感じます。

 

新渡戸稲造は、台湾総督の民政長官となった同郷(岩手県)の後藤新平に技師として招聘されて台湾の糖業(砂糖生産)に貢献しています。支配層の松利権ネットワークは、仏教やキリスト教などの宗教が大きなバックボーンとしていることが窺えます。鎌倉保育園の設立者・佐竹音次郎(1864-1940)を支援した円覚寺派管長・釈宗演、釈宗演の弟子の鈴木大拙、釈宗演に参禅した後藤新平が繋がってきます。また、佐竹音次郎の人脈を調べていくと《佐竹音次郎と交流のあった人々》に行き着きました。

 

『音次郎の起こした保育事業で、音次郎が関わった明治29年から昭和15年までの45年間に交流のあった人たち411名を日誌から求めてみた。ただし、日誌は記載しなかった年や紛失などがあり、7分の1相当の2,600日余の記述で、交流の一部ととらえなくてはならない。日誌は私的なものというより事業に関わる公的なものになるように配慮されており、交流した人物の多くは事業を支援した人たちである』とあります。総理大臣から宗教家、経済人、学者、芸術家など錚々たる名前の411人が掲載されています。

 

1/7相当で411人ということは、単純計算で2800人程の人脈を形成していたことになります。八咫烏の松利権集団のスケールの大きさを目の当たりにし、日本の松利権網の闇の深さを感じます。825()、前日に気づいた右脇の下の円形の湿疹は、まだ痒みが残っていました。湿疹の場所を見ると何か文字を描いているように見え、スマホで伴侶に写真を撮ってもらいました。写真を見ると「八田」のように見えます。その時の湿疹の画像が《こちら》です。この「八田」は、地名か人名だと感じましたが、その時点では分かりませんでした。

 

しかし、鈴木大拙×後藤新平で検索していく過程で《八田與一の旅(その1)山野之義》に「八田」があったのです。『毎年58日、八田與一墓前祭が台南の烏山頭ダムのほとりで開かれています。この墓前祭には八田與一技師の出身地である石川県金沢市の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」(長井賢誓会長)が昭和60年から参列していて、世話人代表 で事務局長をつとめる中川外司(なかがわとし)氏には、機関誌「日台共栄」 第5号「李登輝前総統来日!!」の特集でもご執筆していただいています・・』と記されていました。

 

湿疹が描いた「八田」は「八田與一(はったよいち)」だと感じました。八田與一にはWikipediaがありました。『八田與一(1886-1942)は、石川県河北郡花園村(現在・金沢市今町)の水利技術者。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910(明治43)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。八田も当初は衛生事業に従事し、嘉義市・台南市・高雄市など各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。

 

1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。八田は1920(大正9)から1930(昭和5)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量15,000m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。

 

この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。太平洋戦争中の1942(昭和17)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に客船「大洋丸」に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、「大洋丸」は五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦「グレナディアー」の雷撃で撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。

 

八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられる。日本敗戦後の1945(昭和20)91日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた』と記されています。八田與一は、台湾の烏山頭(うさんとう)ダムを含む嘉南大圳を完成させた人物でした。しかし、太平洋戦争中に客船が沈没して死亡し、妻の外代樹(とよき)3年後に烏山頭ダムに投身自殺したといいます。八田與一の偉業と悲劇は何を意味するか、です。

 

日本がつくった松利権網のアジア拠点となる台湾と背後に絡む創価学会という暗黒集団》にありますが、台湾はアジア圏における日本の支配層の松利権網の中心拠点です。そして、《北アルプス立山を封じる黒部ダムと黒四発電所に隠されたアドレノクロムの闇》などに書きましたが、ダムや水力発電所の地下には、アドレノクロムなどの松工場がつくられていると推測しています。台湾の烏山頭ダムの建設の裏で松関連の地下施設を構築したのです。「烏山頭」の「烏」は「カラス」を意味し、「八咫烏」を示唆していると見ています。(つづく)