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安倍晋三元首相の国葬の企画・演出を担当するムラヤマの社長・矢倉俊彦の出身大学の「多摩美術大学」に着目しました。多摩美術大学は、《頭痛とラップ音のサインから繋がった円山児童遊園が前身となる札幌市円山動物園のワーク》で気になった設計事務所のトップが卒業した大学であり、ワークが出来てないことが心残りでした。しかし、今回、機会を逸しても再び、ワークを行う流れになることを実感しました。Wikipediaによると、『多摩美術大学は、東京都世田谷区上野毛に本部を置く日本の私立大学である。

 

1953年に設置された。大学の略称は多摩美(たまび)TAU。初代校長はグラフィックデザイナーの杉浦非水。キャンパスは八王子と上野毛の2キャンパス。付属施設に多摩美術大学美術館(多摩市)や芸術人類学研究所(八王子キャンパス)がある。 また、1954年、多摩美術大学に併設開校した専門学校である多摩芸術学園は1992年閉校し、多摩美術大学造形表現学部に再編成され、現在の多摩美術大学美術学部演劇舞踊デザイン学科に統合された』と記されています。多摩美術大学の「多摩」が疑問に思いました。

 

多摩美術大学の本部は東京都世田谷区で、東京都八王子市にキャンパスがありますが、東京都多摩市にキャンパスがなく、「多摩」がつくのが不思議でした。ネットで調べると《帝国美術学校》を見つけました。そこには、『帝国美術学校は1929年に開校した各種学校である。35年、帝国美術学校と多摩帝国美術学校に分裂し、それぞれ武蔵野美術大学と多摩美術大学の前身となった。20世紀初頭、東京には太平洋美術学校、文化学院などの各種学校や美術研究所があった。

 

しかし、金原省吾と名取堯の二人はより公的な機関となりうる私立の美術学校を目指し、北昤吉の支援を受けて武蔵野町吉祥寺に美術学校を設立した』とありました。東京都武蔵野市吉祥寺に帝国美術学校があり、そこから武蔵野美術大学と多摩美術大学に分かれたようです。武蔵野美術大学のwikiによると『1935(昭和10)-同盟休校事件が発生し、帝国美術学校より多摩帝国美術学校(現多摩美術大学の前身)が分離独立』と記されています。しかし、帝国美術学校の内部で移転を巡り、賛成派と反対派で内部紛争があったようです。

 

多摩美術大学と武蔵野美術大学の関係》にはwikiと異なる事が書かれています。『帝国美術は、現在、武蔵野美術ということになっているが、しかし、帝国美術から多摩美術が分かれたのではないので、帝国美術そのものが、この上野毛に移転して、帝国美術は発展的に解消したと言ってもよいのである。この校名は、ずっと長いこと、法律上の争いとなり、昭和18年に廃校して和解したのである。したがって今の武蔵野美術は終戦後、新たに発足した各種学校である』。多摩美術大学と武蔵野美術大学は歴史的な因縁のある関係です。

 

多摩美術大学の「多摩」の由来は、ネット情報が見当たらりませんでしたが、帝国美術学校のあった武蔵野市が多摩地区だったので、「多摩」がついたと推測しています。多摩地区は、東京都のうち東京都23区と東京都島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)を除いた市町村部を指し、「東京西部(西東京)」でもあります。東京西部・多摩地区は、水の生まれる場所であり、古くから松取り(松果体収穫)の場所で地下施設がつくられました。地上の松取り工作の隠れ蓑の例が、旧日本軍の基地(中島飛行機工場)ハンセン病療養所昭和記念公園(立川広域防災基地)などです。

 

地下に大事な隠すべきものがあればある程、カモフラージュとして地上に目立つ立派な人工物や建築物を置くのが人間のエゴです。多摩美術大学の初代校長・杉浦非水(1876-1965)と初代理事長・国沢新兵衛(1864-1953)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「変人」「松喰い。工作員」と伝えられました。多摩美術大学の現理事長・青柳正規(あおやぎまさのり:1944-) 、現学長・建畠晢(たてはたあきら:1947-) 、本部所在地(東京都世田谷区上野毛)に闇の解除・統合を意図して光を降ろしました。

 

「工作員。ゴム」「工作員」「いいです」と伝えられました。闇の時代の美術や芸術は、工作の役割を担っていると見ています。光に見せかけた闇の人工物を置いて、闇のエネルギーを広げることや、松取りのために多くの人を集める看板やシンボルとなる造形物をつくったりします。例えば、《ピラミッドが置かれた新宿パークタワーと東京都庁を設計した丹下健三》にある新宿駅西口の地下にあった新宿の目(目玉)や高層ビルにあるピラミッドなどです。いずれにしても、多くの人を集めることが闇を広める根源になります。

 

ムラヤマの社長・矢倉俊彦の友達で、社長ブログにも登場するという「日比野克彦」に注目しました。wikiには、『日比野克彦(1958-)は、岐阜県岐阜市出身の現代美術家。東京芸術大学学長。段ボールを使った作品で知られる。岐阜県立加納高等学校を卒業後、多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科に進学。同大学に1年在学した後、東京芸術大学美術学部デザイン学科に再入学し、1982年に卒業。1984年、同大学大学院修士課程修了。1980年代に領域横断的、時代を映す作風で注目される。

 

作品制作の他、身体を媒体に表現し、自己の可能性を追求し続ける。1986年シドニー・ビエンナーレ、1995 年ヴェネチア・ビエンナーレに出品。近年では、館内の展示室だけでなく、様々な地域の人々と共同制作を行いながら、受取り手の感受する力に焦点を当てたアートプロジェクトを展開し、社会で芸術が機能する仕組みを創出する』と記されています。日比野克彦に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。友達関係である矢倉俊彦と同じ闇の役割のようです。

 

これまで、幾つかの美術館やアート施設を対象にワークを行ってきました。美術・芸術の作品を置いた美術館は、秘密の松取り工作の場になっていることが多いと感じます。多くの人を集める場所は、松利権という裏の金儲けの意図があるからです。DSの支配層の暗黒集団の工作員は、有名になることが重要です。有名になった芸術家が手掛ける作品が「素晴らしいもの」になり、集客効果が高まるからです。闇のエネルギーを放出する作品でも、素晴らしい光の作品になるのです。10年程前に私も体験したことがあります。

 

札幌の老舗ホテルがリニューアルした時に、通路の絨毯に同心円模様が描かれていました。絨毯の上を歩いていると目が回るような感じで、気持ち悪くなりました。おそらく著名なデザイナーの作品だと思います。同心円の図形は、分離の働きのある闇のエネルギーが出ているのです。多くの人が集まる場所ほど、隠された闇のものが置かれています。目に見える現実世界では、形や色や音が闇のツールとして用いられています。その作品を見て、自分がどう感じるかが大事です。専門家の評価や人気ではなく自分の感覚です。

 

「心地良いのか・心地悪いのか」「好きか・嫌いか」という感じ方で識別することです。感覚は心を使います。自分が作品を眺めて、心がどう感じるかを経験していくと分かってきます。自分の感覚を信頼することです。工作員は、人々を見た目で騙します。目に見えない闇のエネルギーを放つ図形や色彩を忍ばせた作品をつくるのです。エネルギーを識別できるのは、思考ではなく感覚です。目に見える現実世界に生きながら目に見えないエネルギーが分かる人が増えることで、工作としての芸術の闇の役割が終わりになると思います。(おわり)