Fushikokawa_2


札幌の地は水の地という光の場所です。水が生まれる場所には光の地底が存在します。今回の札幌の“謎の張り紙”については、水が流れる川や地底の光のエネルギーを松取り(松果体収穫)の闇のエネルギーで封印したことを暗示していると推測しました。松取りには、当然、亡くなった人が伴い、その事実を隠蔽されます。5箇所の謎の張り紙は、「東2丁目線」の道路沿いにあります。「東2丁目線」の道路は、「創成通り」と並行して走っており、今回対象となる川は「創成川(そうせいがわ)」だと思いました。

 

wikiによると、『創成川は、北海道札幌市の中心を流れる石狩川水系伏籠川支流の一級河川に分類される、人工河川である。札幌市を東西に画する起点となっている。江戸時代に「大友堀」として作られ、1874(明治7)に「創成川」と改名された。長さ14.2km、流域面積は19.0km2ある。札幌本府建設の中核となった川であり、また札幌市の防火・風致・下水道の洗浄・灌漑などにも大きな役割を果たしてきた川でもある。1866(慶応2)に幕府(箱館奉行石狩役所)の役人・大友亀太郎が札幌村を開く際に開削した用水路・大友堀が前身である。

 

開拓以前の札幌市付近は豊平川が形成した広大な扇状地であり、豊平川はいくつもの分流を形成していた。大友堀は、現在の南4条西2丁目付近で、胆振川(豊平川分流の鴨々川のさらに分流。現在は暗渠化)から水を引き、北6条の現在のJR札幌駅付近から東に進路を変え、逆S字を描くように流れたのち、大友の役宅の裏(札幌村郷土記念館の東にある大友公園)で豊平川の旧河道である伏篭川に注ぐものであった。大友堀は、開削当初は単に「用水」又は「用悪水」と呼ばれ、稲作のための用水路としての用途の他、湿地部の悪水(灌漑や飲料に適さない水)を処理するためなどの目的で用いられた』と記されています。

 

人工河川の創成川は、稲作のための用水路と湿地部の除水処理、石狩方面から札幌へ物資を運ぶ水運としてつくられました。現在の創成川と大友堀の分かりやすい地図が《mshyndさんTwitter》に掲載されています。地図を見て「伏籠川(伏古川)」が気になりました。大友堀は、伏籠川(伏古川)のバイパスのようになっており、昔の伏籠川を全く異なる形にしてしまったと感じます。また、「伏籠川」の「籠」は、「龍」を竹冠で封印している字です。昔の伏籠川の情報が、地図と共に《札幌うぉーく点描》に載っています。

 

『豊平川の流路が北東に変り、フシコサッポロ川の水量は少なくなったものの苗穂周辺の豊富な湧水を集めて旧流路を保っていたが、札幌の街の発展とともに湧水も枯れ、川跡も埋め立てられていった。現在では、細々と流れる湧水は暗渠に集められて、環状通沿いの伏古地区に入ったところから北に向かう「付古拓北通」下を流れている』。昔の伏籠川(フシコサッポロ川)は、苗穂などの湧水地を通り、豊かな水量を有していましたが、大友堀などの人工河川が出来て埋立てられてしまったのです。

 

昔の伏籠川(フシコサッポロ川)が大友堀の人工河川によって封印されたことになります。これまでのワークから「川」は「龍のエネルギー」であることが分かっています。例えば、《岩手 北上川に隠されていたシリウスのエネルギーの解放 ~巡礼の旅(564)~》にありますが、宮沢賢治の手帳に記された32箇所の封印解除の関連ワークで、北上川が開くよう意図して光を降ろすと『でっかいエネルギーが出た。ここは天の川のような大きな龍のエネルギーが封印されていたと思う』と伝えられました。

 

「川」は、「龍」というシリウスの光のエネルギーが流れる場所です。日本各地にある「川」の光のエネルギーを封じるために行われたのが、利水・治水工事を隠れ蓑にした松取り(松果体収穫)です。《明治政府の大久保利通が尽力した松取りのための阿賀野川の安積疏水事業》に記した阿賀野川の安積疏水事業は、裏で労働者の松取りが行われたと見ています。河川の大規模工事のために動員された無宿人、受刑者、朝鮮人などの労働者が松取りの犠牲になってきました。松取りは、非常に大きな闇のエネルギーとなります。

 

人命を奪うこと、金に換えること、そして真実を隠蔽することの3つの闇が重なります。川は、山などの水源から水が流れるのと同時に、目に見えない光のエネルギーが流れています。江戸時代から戦前までは、治水工事などで松取りの闇を置いていましたが、現在は、ダムや水力発電所をカモフラージュにして、地下施設などで松取りが成されています。日本各地の1級河川などの川のダム・発電所の地下には、光を封じるための松取りの闇が置かれていると見ています。大友堀の建設の際にも、当然、裏で松取りが行われていました。

 

用水路・大友堀を開削したのが「大友亀太郎」です。wikiには、『大友亀太郎は、江戸時代後期から明治時代初期にかけ、北海道の開拓に貢献した相模国(現在の神奈川県)出身の幕臣。二宮尊徳の門下生の一人としても知られ、札幌市の中心部に現在の創成川のもととなる、「大友堀」を掘るなど、用水路や橋梁を始めとする土地の開発に尽力した。札幌村の土台を作り上げたその業績から「開拓の祖」と称されることがある。現在札幌市内には大友亀太郎像が設置され、札幌市時計台には生前の写真が展示されている(隻眼であったことが見て取れる)

 

また、大友公園や資料を収蔵した記念館など功績を称える施設が残されている。当時まだ原生林で鬱蒼としていた場所へ移った亀太郎は、フシコサッポロ川(現・伏籠川)の上流周辺地域を、官による援助や保護のもとに農民を入植させた農場を指す「御手作場(おてさくば)」として定め、道路や橋などの社会基盤を建設する工事に着手した。未開拓の土地に用排水路が設けられたことで、札幌における街づくりの起点を作った。現在もこの大友堀は、創成川の一部分として残されている。

 

用排水路のほか、しばらくして運河の機能も担うこととなった大友堀は、当時の金額にして総工費およそ3千両、工事に従事した人数は450名に上った』と記されています。大友亀太郎が隻眼(せきがん:片目または片方の目が視力を失った状態)だったことは、オーディンの魔術を有していた事を暗示します。昔の伏籠川(フシコサッポロ川)の光としての龍のエネルギーを解放するためには、大友亀太郎と大友堀の掘削で松取りの犠牲になった人たちと御魂を上げて、松取りの闇を統合する必要がありました。(つづく)