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日本人による初めての保育所がつくられたのは、新潟でした。《保育ぷらす》によると『1890(明治23)に新潟で開かれた「静修女学院附設託児所」が、日本人の手による初の保育園になります。明治の教育者、赤沢鍾美とその妻ナカが創立した「静修女学院」には幼児を連れて登校しなければいけない女生徒が多く、それを助けるために授業中に幼児を預かる託児所として開かれました。そしてのちに独立し、社会福祉法人となり、現在は赤沢保育園として運営されています』と記されています。

 

wikiには、『赤沢保育園は、新潟市中央区にある私立の保育園。日本で始めて開設された保育園である』とあります。赤沢保育園は日本初の保育所(保育園)です。どうして日本初の保育園が新潟県新潟市につくられたのか、です。全国初の認定こども園「井川こどもセンター」は秋田県井川町にあります。八郎潟という大事な水の場所である光の地を松取り(松果体収穫)の闇で封印するために全国初の認定こども園が置かれたのです。新潟県も水の場所である光の地です。

 

東京書籍》によると、新潟の地名の由来は、信濃川、阿賀野川の河口の中洲の新しい潟(沼地)が形成されたことに因むといわれています。大きな光のある土地を封じるために日本初の保育園が置かれたと見ています。公式サイトには、『赤沢保育園は明治23年に赤沢鍾美(あつとみ)が日本で初めて、幼児達を預かり保育を始めた歴史のある保育園です。心も身体も劇的に変化成長し、成人の基礎が出来上がる時期が保育園の期間。赤沢保育園は、身体の健康造りに次いで、見えにくい心の基礎造りに重点を置いた保育を心がけています。

 

名称:赤沢保育園 経営主体:社会福祉法人 守孤扶独幼稚児保護会(しゅこふどくようちじほごかい) 所在地:新潟県新潟市中央区東湊町通 設立・認可:明治23年設立 昭和2311(児童福祉法施設として) 認可 園長:小林恵 保育士16名 調理員2名 非常勤職員4名 特別保育内容 延長保育、緊急一時預かり、一時預かり(拠点園)、障がい児保育』とあります。赤沢保育園の創立者・赤沢鍾美(1864-1937)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。

 

赤沢保育園の園長・小林恵と運営母体の社会福祉法人 守孤扶独幼稚児保護会の理事長・赤澤泰子に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「半島」「中国」と伝えられました。《保育ぷらす》には、労働者を助ける児童福祉施設のはじまりとして、東京の「二葉幼稚園」が紹介されています。『現代の保育園のように、労働者を助ける児童福祉施設のはじまりとして1900(明治33)に開かれたのが、東京・麹町の「二葉幼稚園」です。明治の東京には紡績工場や製糸工場で働く女性が多く、家庭の事情で十分に保育を受けられず路上で遊んでいるような子どもたちが多数いました。

 

野口幽香と斎藤峰は、そのような子どもたちを、華族幼稚園の子どもたちと同じ様に保育したいという思いのもと、二葉幼稚園を開きました。二葉幼稚園では、衣食住を子どもたちに施し、衛生的な指導をする活動からはじまりました。のちに麹町から四谷の貧困街へ移り、大正時代には名前を「二葉保育園」と改めて更に多くの子どもたちを受け入れ、教育も施すようになりました』。二葉保育園も貧しい家庭環境の子供を対象としており、隠された松利権が潜んでいると感じます。

 

コトバンク》によると、『【二葉保育園】明治期に創設された代表的な保育所。野口幽香(ゆか)(1866‐1950)らクリスチャンにより、1900年東京麴町に二葉幼稚園の名で開設された。当時の幼稚園が中流以上の子どもの保育に傾いていたのに対し,貧民の子を良い境遇において教育することはおとなの義務であるとの考えに立って、3歳以上の幼児を対象に178時間の保育を行い、休日も日曜・祝祭日と年末年始に限り、これにより父母の労働を助けた。保育内容は〈遊嬉〉〈唱歌〉〈談話〉〈手技〉であった』とあります。

 

公式サイトによると二葉保育園の運営母体の「社会福祉法人 二葉保育園」の概要は、『名称:社会福祉法人 二葉保育園 本部所在地:東京都新宿区南元町 施設:二葉乳児院(新宿区・南元町) 二葉学園(調布市・上石原) 二葉むさしが丘学園(小平市・鈴木町) 二葉南元保育園(新宿区・南元町) 二葉くすのき保育園(調布市・国領町) 自立援助ホーム トリノス(日野市・神明) 理事長 井上従子」と記されています。乳児院から児童養護施設まで子供を対象にして手広く運営している社会福祉法人です。

 

二葉保育園の創設者・野口幽香のwikiには、『野口幽香(1866- 1950)は、播磨国姫路清水(現:兵庫県姫路市)出身の幼児教育者、社会事業家。1890年、東京師範学校女子部(現・お茶の水女子大学)を卒業。同年、東京女子高等師範学校と改称した母校の附属幼稚園に助教諭として着任。1906年、明治の三大貧民窟のひとつであった東京・四谷鮫河橋に二葉幼稚園を移転。皇室御料地を無料で借用したもので、本格的な「貧民幼稚園」の始まりとなった。19424月から19475月まで、計15回にわたり香淳皇后にキリスト教(聖書)の進講を行う。

 

これは香淳皇后からの希望によるもので、クリスチャンである野口は香淳皇后の恩師でもあり、例年の皇后誕生日(36)には皇居に招かれ歓談していた。1950127日、上落合の自宅で84歳で死去。生涯独身であった』とあります。野口幽香は、皇室御料地を無料で借用して「貧民幼稚園」の始め、香淳皇后の恩師でもあることから、二葉保育園は皇室の松利権のためでもあったと捉えられます。二葉保育園の創設者・野口幽香の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。

 

「社会福祉法人 二葉保育園の現理事長・井上従子と本部所在地(東京都新宿区南元町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「松喰い」「いいです」と伝えられました。幼稚園や保育所(保育園)は、歴史の調査とワークから、松果体収穫や松利権のためにつくられてきた施設であることが窺えます。幼稚園と保育所の監督官庁のワークを行うことにしました。幼稚園の管轄省庁は「文部科学省」で、保育所の管轄省庁は「厚生労働省」です。各省の担当局長、事務次官、大臣をワークの対象としました。

 

「文部科学省」の初等中等教育局長・藤原章夫、文部科学事務次官・柳孝、文部科学大臣・永岡桂子(自民党衆議院議員・麻生派・6期・茨城県)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「半島」「仁風林」「ゴム。半島」と伝えられました。「厚生労働省」の子ども家庭局長・藤原朋子、厚生労働事務次官・大島一博、厚生労働大臣・加藤勝信(自民党衆議院議員・7期・茂木派・岡山県)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ワニ」「悪いヤツ。ロボット。お縄」「ゴム」と伝えられました。

世界的に見ると幼稚園や保育所(保育園)の始まりは、やはりキリスト教の闇が深く関係しています。子供の大きな魂の光を封印するための松取り施設としてつくられてきました。特に、日本においては、貧困家庭の子供を対象にした保育園を意図的につくり、支配層の松取りのターゲットにされてきたのです。日本は本当に深い闇の仕組が構築されています。大切な子供たちを守るためにも多くの人が身近な隠された闇に気づく必要があります。幼稚園・保育所・認定こども園の闇の仕組が終わることを願っています。(おわり)