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福岡県八女市のウィキペディアには興味深い事柄が書かれています。1つは、第二次世界大戦中に遷都の候補地だったことです。『第二次世界大戦中1943(昭和18)、政府企画院は岡山県邑久郡行幸村(現在の岡山県瀬戸内市)中心地区、朝鮮京城府(現在の韓国ソウル特別市)周辺地区と並んで八女郡福島町中心地区を遷都の候補地とした。混乱の中での遷都案とはいえ、八女が「天災地変少なき土地」、「冬季寒気厳しからず夏季暑気甚しからざる土地」、「地形平潤にして高燥、風光明媚なる土地」、「諸物資豊富なる土地」といった条件をクリアする土地だと判断された。

 

このことからも、八女地域の恵まれた自然条件を示すことをうかがえる』。wikiに記されていることは、表向きの理由であり、本当は、大本営という天皇が松果体摂取を行う場所として3箇所が候補になったということです。《日清戦争の時期に東京から広島に移転された大本営》にありますが、日清戦争の際に大本営が東京から広島に移転したのは、戦争で収穫された「松」の遺体が広島に集められたからだと見ています。八女市は多くの缶詰工場がつくられる前に、松関係の場所になっていたことが窺えます。

 

もう1つは、現在の八女市は蒲池(かまち)氏の松利権の支配下であったことです。wikiには『中心部の平地では戦国時代、蒲池氏の領地で、蒲池親広にはじまる蒲池庶流の上蒲池の支配地であった。安土桃山時代以降、豊臣秀吉の九州平定により筑紫広門が領主として封され、平地に築いた平城として初見され、八女市福島村の中心部に城郭を築いた』と記されています。八女の地は、蒲池氏が松利権を支配していたのです。蒲池氏の子孫の有名人には、「松田聖子(蒲池法子)」や松田聖子の実兄の「蒲池光久」がいます。

 

wikiには、『松田聖子(出生名:蒲池法子)の実家である蒲池家は、蒲池鑑盛の三男蒲池統安の次男で、後に僧籍に入った応誉の子孫である。応誉は柳川藩祖立花宗茂の正室誾千代の菩提寺である柳川良清寺の開祖となり、同寺の蒲池家は代々住職を務める一方、藩主立花氏の家老格の武家として重んじられた。幕末の柳河藩士蒲池鎮之は松田聖子の高祖父にあたる。松田の兄、蒲池光久は東海大学研究推進課課長(2003年現在)であるが、同時に国際的なラリー・レーサーでもある。また、娘に神田沙也加がいる』とあります。

 

支配層の日本DS・八咫烏の工作員の役割を担う松田聖子・神田沙也加・蒲池光久については、神田沙也加の急死事件の関連記事《ゴム人間が溢れる芸能界の現実と神田沙也加の急死事件》に記しています。八女市の地名に何か意味があると感じて、「八女(やめ)」の由来を調べると《八女市のホームページ》に記載されていました。『最古の歴史書「日本書紀」にあるこの地方に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にあるという一節が、八女という地名の由来と言われています。

 

岩戸山古墳をはじめ多くの古墳が広がり、はるか昔から人々は豊かに暮らしていました。江戸時代には八女地方の物産集積地として、政治・文化などの中心地として栄え、現在も伝統工芸の里であり、農産物も豊富です』。「八女津媛(やめつひめ)」という名前の女神を祀っているのが「八女津媛神社」です。《八女市のホームページ》の八女津媛神社には、『大和朝廷の時代、景行天皇が八女の地に巡幸の折、水沼の県主猿大海が「この地方に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中におる」と奉上した。

 

このことから八女の地名が起こったといわれ、その女神を祀った1300年の歴史があるとされる神社。また神社の氏子が境内で、五穀豊穣・無病息災などを祈願して5年ごとに公開される「浮立」がある。太鼓、鉦をつけた踊り手が真法師を中心に華やかに舞います。福岡県指定の無形民俗文化財です』とあります。グーグルマップのコメントには、『祭神は八女津媛神で八女の地名の由来になったと、日本書紀に記されている。神社は神の窟の集落にある高さ76m30cm、奥行き9m大きな洞窟の下に鎮座する。

 

八女の県一帯を治める女神。養老33月の創建・・』とあります。グーグルマップの画像を見ると、洞窟の岩から染み出している水を「媛しずく」と名づけて案内板があります。八女津媛神社には、洞窟があり岩から水が染み出してくるのです。「津」は「水」を意味します。八女津媛神社の場所は八女市の山塊の中央であり、重要な光の地底がある場所です。八女津媛神社の境内(福岡県八女市矢部村北矢部4015-1)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ここは松取りの場所」と伝えられました。岩から水が生まれる光の地を松取りの闇で封じたのです。

 

「八女」の「八」は、「八百万(やおよろず)」「八幡」「八咫鏡」「八正道」にも付けられており、「山」「自然」「光」を意味するものだと感じます。八女の地は、本来、大きな自然に由来する光のエネルギーがある場所なのです。その光を闇にして封じるために古くから松取りが行われ、闇の缶詰工場がつくられたと感じます。「八女津媛」は後に真実を追究する上でのヒントとして置かれたと感じます。八女市のwikiを見ていくと大日本帝国軍の飛行場であった「岡山飛行場」が気になりました。

 

wikiには、『岡山飛行場は福岡県八女市(蒲原、亀甲、今福、室岡、龍ヶ原)にかつて存在していた、大日本帝国陸軍の飛行場。敷地の形が八角形であったことが特徴。筑後飛行場とも呼ばれる。1941(昭和16)4月の「航空機乗員養成所官制」を受けて、逓信省の筑後航空機乗員養成所の設置が決まった。1942(昭和17)に計画、1943(昭和18)に測量が開始された。その後、陸軍の本土防衛用飛行場として引き継がれて1944(昭和19)に開所式・入所式が行われた。完成は1945(昭和20)4月だったとされる。

 

跡地は宅地や農地となったが、八角形の地割が今も残っている。また、飛行場に設けられていた建物のコンクリート基礎、側溝などが残っている』とあります。岡山飛行場は敷地の形が「八角形」だったのです。どうして「八角形」なのか疑問が浮かびます。さらに、岡山飛行場を調べていくと《「特攻隊養成所」が八女にあった 茶畑地帯に八角形の飛行場(2020/8/18 西日本新聞)を見つけました。岡山飛行場は、裏の松取り工作である「特攻隊養成所」のためにつくられたのです。

 

戦争の真実を隠蔽する悲劇の美談の闇に覆われた沖縄特攻作戦と特別攻撃隊》にありますが、特攻隊は若い兵士の松取りを行うための偽装工作だと推察しています。大事な光の場所である八女の地を封じるために、岡山飛行場に「特攻隊養成所」が置かれて松取りが行われたのです。岡山飛行場に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです。八紘一宇(はっこういちう)が浮かんだ」と伝えられました。《光の場所に闇を置く》にありますが、「八紘一宇」とは、本来は、天の下では皆平等というを意味する言葉です。

 

それが第二次世界大戦時の裏の松利権網である「大東亜共栄圏」の構想で「天皇の下での家族」という「完全支配」のスローガンに変えられたのです。恐らく、本来は光だった八角形が松取り工作によって闇にされたと見ています。「八紘一宇」自体が闇の術となり、自然の光を封印する役割になったと感じます。闇の時代には、精霊も松取りによって闇の存在にされて松取りを手伝うようになります。地球の光のものが闇に変えられてきたのです。この闇にされたものを光に戻す時が、今なのです。

 

Jタウンネットの2022/10/05の記事《「光の護封剣」「多分エヴァ」 上空に出現した8本の「光の柱」が話題に→その正体は?専門家に聞く》には、北海道・函館市の北側にある七飯町で2022822日に撮影された「黒い影のように見える森の上空に、8本の光の柱が浮かんでいる写真」が掲載されています。ツイッターに投稿された写真には綺麗に8本の光の柱が映っています。個人的には「八」が光に戻るサインと捉えました。八女の地が本来の光の地に戻ることを願っています。(おわり)