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16()、朝起きると旭川の開拓の夢を見ていた記憶がありました。「旭川開拓の歴史の調査とワーク」を意味する夢だと思いました。北海道旭川市は大事な光の地である故に、大きな松取り(松果体収穫)の闇が置かれて封印された場所です。旭川については、これまで幾度も調査とワークを行ってきました。「旭川開拓×歴史」でネットで調べると「鈴木亀蔵(亀吉)」の名前が出て来ました。ちょうど2日前にベランダにカメムシが大量に飛んできて死んでいたので、「鈴木亀蔵(亀吉)」の「亀」のサインだと感じました。

 

亀吉の由来って知ってる?旭川の歴史を振り返ろう【①明治時代編】》には、『秋田県から移住した鈴木亀蔵は1877年、26歳の時に現在の石狩川と忠別川の合流地点に住居を構えた、上川地方初の和人定住者といわれています。当初の目的はアイヌとの交易。誠実な人柄だったことや、アイヌの女性を妻にしたことなどから、周囲からは「亀吉」の愛称で親しまれていたそうです。彼が住んだ地域は「亀吉島」と呼ばれ、現在もなお「亀吉」の名前が地名として残っています』と記されています。

 

鈴木亀蔵のWikipediaがあり経歴が記載されていました。『鈴木亀蔵(1851-1902)は、日本の実業家。北海道の上川地方に最初に定住し、アイヌと交易をした和人。アイヌからは「カメキチ」と呼ばれた。旭川市亀吉の地名の元になり、旭川功労者に認定された。旭川市の日本醤油工業株式会社創業者としても知られた。1851(嘉永4)10月、秋田・川口にて鈴木人善兵衛の四男として生まれる。1870(明治3)頃、渡道し千歳群漁村(現在の恵庭市漁町付近)で元の場所請負人であった三海綿平のカンビ(漁場監察)をつとめる。

 

1872(明治5)頃から、魚を束ねるシナの皮を採集のため上川に入り、この地の天産ゆたかなのに喜んで、これと交易のために毎年神居古潭の難所を越えては上川に入り米・みそ・酒・煙草・什器などと熊の皮などアイヌの獲物と交易しては戻っていた。1877(明治10)26歳の時に日高出身で漁方面に出ていたメノコ(アイヌの女)のイアンパヌを妻として、石狩川及び忠別川の合流地点忠別太の中州に草小屋を建て定住する。「(上川地方に定住した最初の和人)亀蔵」という名前はアイヌから呼びにくいため「カメキチ」と呼ばれ、この地は後に亀吉島と呼ばれる。

 

1890(明治23)、札幌から忠別太までの上川道路が開通し、移住者が徐々に増え始める。同年920日、上川郡旭川村が誕生。札幌から移住してきた新潟出身の笠原喜助・喜八郎兄弟と共同で永山村に笠原酒造店を興す。1891(明治23)、旭川市曙11丁目2-3に笠原酒造店を移転。後の日本醤油工業株式会社となる(当時の建物のまま現存)1902(明治35)6月、51歳で病死』。《熊野神社神官や雑賀衆を源流とする八咫烏の鈴木氏とDS工作員としての味の素の創業者・鈴木三郎助》から鈴木亀蔵の「鈴木」姓の源流は「八咫烏」であることが分かっています。

 

鈴木亀蔵(亀吉)は、和人として最初に旭川の地に入植してアイヌの妻と結婚してアイヌの人たちの松取りを行っていたと感じました。鈴木亀蔵(亀吉)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「得たいが知れない。宇宙人かもしれない」と伝えられました。《先人たちの物語 シンリッオルッペ》には亀吉のアイヌ人の妻・「大貫イアンパヌ(あい)1853-1924年」の情報が記されています。『イアンパヌは名寄市に暮らしていた女性です。名前は「かしこい人」という意味だとされてます。

 

美しい女性でありながら熊猟をし、ユカラ(アイヌ語で語る英雄の物語)が得意でした。男性がやることは何でもしたそうです。和名はあいです。名寄に住む前、1977(明治10年)頃は、旭川の亀吉に住んでいました。出身は日高地方。今の千歳市あたりから旭川市へ来たともいわれています。夫は鈴木亀蔵といって旭川に最初に定住した和人ともされています。夫婦はささぶきのチセ()に暮らしながら、旭川の民族と交易をしていました。当時は不公平な交換を強いる和人が多かったので、イアンパヌは人々から信頼されるよう、ていねいに接しました』。

 

当該サイトには、「集落の真中に集会所を作り、付近のアイヌ民族に日本語やカタカナを教えていたこと」「いつも数人の孤児を育ていて、駅で保護した子を宮城県にいた親類と再会させたこともあった」とも記されており、亀吉とアイヌ人の妻・イアンパヌは、アイヌの子供の松取りを行っていたことが窺えます。イアンパヌの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「ワニの宇宙人」と伝えられました。やはり、亀吉とイアンパヌの夫妻は松取りの闇と深く関係する宇宙人が絡んでいました。

 

また、引用サイトには、「1909(明治42)には、登別出身の金成イメカヌ(和名マツ)がキリスト教の布教のために日曜学校を開き、そこでユカラを語りました。イメカヌのもとには川村ムイサッマッや杉村キナラプク、日高から平賀サダモというふうに、ユカラの名手が訪ねてきました。その中にイアンパヌも加わって、たがいの語りを聞いては楽しんだのです』とあり、キリスト教が絡んだ松取りの闇だと分かります。金成イメカヌは、「旭川女子中学生いじめ凍死事件」の関連ワークで出て来た「知里幸恵」の養母でした。

 

wikiには、『金成マツ(1875-1961)は、北海道幌別郡オカシペッ(現:登別市千歳町)出身のアイヌ女性。1891年、怪我により半身不随となる。1892年、妹の金成ナミと共にジョン・バチェラーによって設立された函館の愛隣学校に入学し、卒業後、妹と共に平取村の開拓・キリスト教(英国国教会)の布教にあたった。1909年、妹ナミの娘である知里幸恵を養女として迎える』とあります。金成イメカヌは、キリスト教宣教師によるアイヌの女性や子供の虐待・人身売買の松取りに加わっていたと感じます。

 

旭川の地に全てのアイヌ女性の怨念の術を掛けたシャーマン・知里幸恵》では、知里幸恵に光を降ろすと「アイヌのシャーマンだった。恨みつらみの術を掛けた。全てのアイヌの女性の恨み。だから同じ目にあった。解き放たれるといいのだけれど。やられ尽くして殺された」と伝えられました。金成イメカヌ、妹の金成ナミ、平賀サダモの御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「男。マザーテレサと同じ」「レプ」「いいです」と伝えられました。次に、鈴木亀蔵(亀吉)が創業した「日本醤油工業株式会社」に着目しました。

 

公式サイトによると『【旭川最古の醬油醸造業】鈴木亀蔵氏は旭川の最初の入植者でした。明治23年鈴木亀蔵氏は、札幌の人笠原喜助・喜八郎氏兄弟と共同で笠原酒造店を興しました。現在の建物はこの時に建てられました。これが当社のルーツです。その後、笠原酒造店は笠原合名と改組され、昭和3年の道内酒造業の合併で、日本清酒㈱旭川支店となりました。大戦末期の昭和19年、政府の指導により、酒造業の企業整備があり日本清酒㈱旭川支店が天廃に指定され、醬油醸造への転換がはかられました。

 

そこで、キッコーマン株式会社、日本清酒株式会社両社の協力のもとに時代の要請に応えるために、現在の日本醬油工業株式会社が設立されました』と記されています。《道新ななかまど》には、『現在は大豆からの醤油造り(醸造)はしておらず、キッコーマン千歳工場から送られてきた原液を規格に合わせて調整し、出荷しています』と記されており、日本醬油工業は実質的にキッコーマンの子会社であることが分かります。日本醬油工業の本社(旭川市曙1条1丁目302番地)は、道路を挟んで旭川赤十字病院の向い側にあります。

 

遺体の松の闇で繋がっていると推察します。過去のワークから醬油には歴史的にも松果体成分が入っていると見ています。日本醬油工業の取締役社長は「茂木浩介」です。ネット情報は得られませんでしたが、キッコーマンの茂木一族と血縁関係があると感じます。日本醬油工業の取締役社長・茂木浩介と本社所在地に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「日本DS」「いいです」と伝えられました。旭川の地の暗黒の闇が終焉して、自然の光に満ちた本来の姿に戻ることを願っています。