二風谷(にぶたに)ダムの情報はウィキペディアに掲載されています。『二風谷ダムは北海道沙流郡平取町、一級河川・沙流川本流中流部に建設されたダムである。国土交通省北海道開発局室蘭開発建設部が管理する特定多目的ダムである。型式は重力式コンクリートダム、高さは32.0m。沙流川の治水と日高地域への利水を目的に建設されたが、建設に際し水没予定地に住むアイヌ民族との軋轢がダム建設差し止め訴訟にまで発展、アイヌ民族の先住性を問う契機となったダム事業として知られている。
ダム湖は二風谷湖と呼ばれる』。沙流川(さるがわ)は日高地方を流れる重要な川です。北海道沙流郡日高町北東部の上川郡清水町との境界にある日高山脈北部の熊見山(標高1,175m)に源を発し南西に流れ、二風谷ダムを経由して、日高町字富浜と日高町富川南の境界から太平洋に注ぎます。上流部は切り立った渓谷で、中流は河岸段丘、下流部は扇状地となっており、中流に最大のアイヌ集落である平取コタンがあります。沙流川は日高管内において鵡川(むかわ)と並ぶ規模の大きい一級河川です。
流域は競走馬の産地として知られる門別町などがあり、古くから競走馬が生産されてきました。沙流川は水という光の場所であり、沙流川の流域を闇にするためにアイヌの松取りや競走馬の育成場という馬の松取りの闇の場所となってきたと感じます。そして、最終的には地下に松施設を備えた「二風谷ダム」が置かれたのです。これまでの調査とワークから一級河川の殆どがダムや水力発電所が建設され、地下に松施設がつくられてきたと推察しています。川の水を闇にするための松施設が伴うダムや発電所なのです。
川の水を闇にすることで、源流の山や流れ込む海や湖という水の場所も闇にして封じることができます。wikiには、二風谷ダムの概要が記載されてます。『利用目的:洪水調節・不特定利水・灌漑・ 上水道・工業用水・発電 事業主体:国土交通省北海道開発局
電気事業者:ほくでんエコエナジー 発電所名:(認可出力)二風谷発電所(3,000kW) 施工業者:西松建設・岩倉建設 着手年/竣工年:1973年/1997年』。二風谷発電所を含めた二風谷ダム全体に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「死んだ人たちがいっぱいいる」と伝えられました。
アイヌの人たちやダム建設の時、ダム建設後に松取り(松果体収穫)の犠牲になった人たちだと感じます。留まっている魂が光に還るよう再度、光の柱を降ろしました。二風谷ダムの事業主体である国土交通省北海道開発局の関係者もワークを行いました。国土交通省北海道開発局長・石塚宗司、国土交通事務次官・藤井直樹、国土交通大臣・斉藤鉄夫(公明党)、国土交通省北海道開発局所在地(札幌市北区
札幌第1合同庁舎)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「半島」「半島」「創価の上級工作員」「いいです」と伝えられました。
二風谷ダムの建設に際しては、アイヌ民族の代表2人は法廷闘争にまで及びました。これは、アイヌと国の両者が裏で手を組んだ"やらせプロレス"であり、アイヌ同和に税金という国の予算を流すための工作だったと見ています。wikiにはアイヌ民族の闘いという項目で経緯と結果が記されています。『アイヌ関係者のうち萱野茂と貝澤正の両名はアイヌ文化を守るため頑強にダム建設に反対。所有する土地に対する補償交渉に一切応じず補償金の受け取りも拒否した。このため北海道開発局は両名への説得を断念し土地収用法に基づき1987年(昭和62年)に強制収用に着手した。
これに対し両名は強制収用を不服として1989年(平成元年)に収用差し止めを事業者である建設大臣に求めたが1993年(平成5年)4月にこれは棄却された。請求棄却に反発した両名は翌月土地収用を行う北海道収用委員会を相手に札幌地方裁判所へ行政訴訟を起こした。いわゆる「二風谷ダム建設差し止め訴訟」である。・・判決はアイヌ民族を先住民族として認めた画期的なものである。7月には政府が差別的法律として悪名高かった北海道旧土人保護法を廃止し、アイヌ文化保護を目的としたアイヌ文化振興法が成立。
アイヌ民族長年の悲願が実現した。同時にアイヌ文化振興・研究機構が発足し、萱野が1991年(平成3年)に立てた二風谷アイヌ文化博物館を水源地域対策特別措置法の国庫補助対象としてアイヌ文化・アイヌ語伝承や文化財保護の拠点として拡充させた』。二風谷ダムの建設反対を通して、アイヌ同和の代表工作員である萱野茂と貝澤正は、自分たちに国の金が回るよう手を打つことが出来たのです。この延長線上にあるのが北海道白老町につくられた「ウポポイ(民族共生象徴空間)」です。
二風谷ダム建設に反対した萱野茂(1926-2006・元国会議員)については、《知床岬に存在したアイヌコタンと知床財団・自然公園財団のワークが示唆する反社の松工作拠点の知床半島》のワークで行っていました。萱野茂の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「先住民だけど裏切った人。隼人と同じ」と伝えられました。《鹿児島 隼人塚 ~巡礼の旅(367)~》には、隼人(はやと)と熊襲(くまそ)の和睦・調和のワークについて記しています。ヤマト王権側についた先住民は「隼人」と呼ばれます。隼人は先住民の熊襲を裏切り、熊襲の人たちの松取りを行っていました。
萱野茂も同様に、体制側について仲間を裏切って命を金に換えていたと見ています。萱野茂と共にダム建設反対の工作を成した貝澤正(かいざわただし)についてはwikiがあります。『貝澤正(1912年-1992年)は、元平取町議会議員、元北海道ウタリ協会副理事長。北海道平取町出身。1912年に生まれる。父親はアイヌ人であったが、日本人に同化することを目指していた。母親は和人であったが、アイヌ文化を子どもたちに教えていた。平取尋常高等小学校高等科卒業。1941年、開拓団員として満州に渡る。1967年に、平取町議会議員に当選する。
1971年、二風谷アイヌ文化資料館が落成し、初代館長となる。1972年、北海道ウタリ協会の副理事長に就任する。1992年2月3日、死去する』。貝澤正の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「汚いヤツ」と伝えられました。萱野茂がアイヌ初の国会議員に就任したことによりアイヌ新法制定に向けた動きが進み、1997年(平成9年)5月8日にアイヌ文化振興法が成立しました。アイヌ利権と呼ばれる同和利権がより一層増幅されました。二風谷ダム建設によって純粋な平取の地が金とエゴの汚い闇に覆われることになったのです。(つづく)