早稲田大学総長・田中愛治のウィキペディアの経歴に記載されていた「世界政治学会(IPSA)会長」の「世界政治学会」が気になりました。wikiによると、『世界政治学会(International Political Science Association, IPSA)は、ユネスコの後援のもと1949年に設立された国際的な学術組織である。国際的に政治学の進歩を目指し、また東西と南北の橋渡しのため、設立された。現在のメンバーは日本政治学会やアメリカ政治学会など52ヵ国の組織であり、主な活動は以下の通りである。
1.定期的に総会を開くこと、2.政治学研究推進のための研究会を開くこと、3.研究普及のため、出版物を出すことの3つである。総会は、1950年代初頭から3年に1度のペースで開かれており、毎回2000人が参加する。2006年の第20回大会は日本の福岡市の福岡国際会議場などにおいて、約70カ国・地域から約2200人が参加して開催された。大会組織委員長は佐々木毅が務め、公開講座ではコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーンや国際協力機構理事長の緒方貞子らが講演し、日本文化体験として茶道体験や華道の展示、着物試着が行なわれた』と記されています。
《DSの松利権網の地下施設を隠して裏の金儲けのために人集めをするユネスコ世界遺産センター》では、ユネスコの幹部のワークを行っており、ユネスコはトカゲ・レプタリアンのDS組織であることが分かっています。世界政治学会はユネスコの後援の下で設立されており、同様な闇の仕事をするDS勢力であることが窺えます。IPSAの初代理事長・クインシー・ライト(アメリカ合衆国シカゴ大学、1949年-1952年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「イルミナティ」と伝えられました。
IPSAの現理事長・ダイアン・マリー・ピンダーヒューズ(アメリカ合衆国ノートルダム大学、2021-2023年)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「人間じゃない。イルミ」と伝えられました。《イルミナティの撤退 (前編) ~闇が光に還るとき~》にありますが、イルミナティの宇宙人とは過去に対峙したことがあります。2015年2月に、アメリカインティアンの虐殺の地に光を降ろした夜、首から両肩にとても重たい闇のエネルギーが来ていて、イルミナティのボスと分かりました。
イルミナティのボスは「自分たちは寄せ集めの集団」と話していました。アメリカインティアンを虐殺し松取り(松果体収穫)の闇の仕事をしていた爬虫類型宇宙人だと感じます。イルミナティの比較的軽い闇は光に還っていましたが、まだ、重たい闇の宇宙人は地球に残っているのです。wikiに掲載された早稲田大学総長・田中愛治の情報の中で最重要だと感じたのは、田中愛治の実父である「田中清玄(たなかせいげん)」です。田中清玄については、過去の調査でも目にしており、重要人物だと感じていました。
wikiには、『田中清玄(1906年-1993年)は、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)の実業家、政治活動家、CIA協力者。フィクサーともいわれる。戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は政治活動家となり、戦後は実業家として三幸建設工業株式会社社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、田中と南方哲也(元長崎県立大学教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエティー会員。1993年12月10日、脳梗塞で死去した』とあります。
PCで田中清玄のWikipediaを見ていると、伴侶が突然、大声を出しました。居間に行って聞いてみると「今、ベランダの手すりに大きなカラスがとまって、こっちを見ていたのよ。近づいて追い払ったら飛んで行った」と伴侶が言いました。カラスがベランダの手すりにとまった事は、過去にもありました。《1羽のカラスがヒントになった八咫烏のワークと工作拠点の歴史が潜む京都大学》にありますが、京都大学について調査して記事を書いていた時に、カラスがベランダに来たのです。
調査とワークから京都大学は八咫烏の重要工作拠点だと分かりました。1羽のカラスがベランダの手すりにとまったのは「八咫烏だよ」と教えてくれるサインだと受取りました。田中清玄を調べている時にベランダに来たカラスも同じで、田中清玄が八咫烏の重要工作員であることを伝えてきたのです。田中清玄のwikiには、『CIA協力者。フィクサー。日本共産党(第二次共産党)中央委員長』とあります。CIA協力者ということは、フリーメイソン米国派(ロックフェラー)の工作員です。
しかし、一方で、国際共産主義運動の指導組織のコミンテルンに関係して、日本共産党中央委員長にも就いており、フリーメイソン天皇派(ロスチャイルド)の工作員でもあったということです。米国の闇と欧州の闇の両方の闇の仕事を上手くこなしていた八咫烏の重要工作員だと見ています。wikiに掲載された田中清玄の活動で注目したのは、「静岡県三島市の龍沢寺の住職・山本玄峰の弟子となり、終戦工作に関わっていること」「終戦に際して昭和天皇に拝謁して退位しないよう伝えたこと」
「岸信介や児玉誉士夫らの米国派と敵対し、山口組や稲川会などの暴力団が絡む田中清玄銃撃事件が起きたこと」「アラブ首長国連邦やカタールなど中東石油の工作にも関わっていたこと」などです。田中清玄は、非常に広範な工作活動を展開してきたことが分かります。田中清玄の御魂が上がるよう意図して光をお降ろすと「松取りの裏部隊の人。米国工作員」と伝えられました。田中清玄の広範な活動のベースには、各所での松取り(松果体収穫)と松利権ネットワークの構築の裏の任務があったと見ています。(つづく)