田中清玄のネット情報を収集し、記事を書いていると左手の親指の付け根に痒みを感じました。感覚的には、田中清玄の父親や先祖に目を向けるためのサインだと捉えました。田中清玄のwikiには、『「自伝」によれば、戊辰戦争に自殺した会津藩家老の田中土佐(田中玄清)の子孫。清玄は後年も会津の血を引いていることを誇りにしていた』と記されています。wikiによると、『田中玄清(たなかはるきよ・1820年-1868年)は、江戸時代末期(幕末)の会津藩家老。田中土佐の通称で知られる。
文政3年(1820年)、会津藩家老・田中玄良の長男として生まれる。田中家は会津九家に数えられる藩内の名門で、家禄は2000石である。父と同じく家老として藩主・松平容保に仕えた』とあります。松平容保を藩主とする会津藩は、京都守護職にも任ぜられており、八咫烏の松取り(松果体収穫)部隊だったと感じます。《悲劇の美談として語り継がれる会津戦争の白虎隊》にありますが、戊辰戦争の会津戦争の時に、松取りの真実が隠蔽されました。白虎隊の悲劇の美談で覆って真実が隠されたのです。
白虎隊の少年兵たちの松取りを行った事を真実を隠すための工作が成されたと見ています。福島県会津の地は、大事な水のある光の場所である故に、古くから松取り工作が行われてきた場所です。松取り工作の場所には、自ずと金で動く工作員が多く生まれます。早稲田大学総長・田中愛治と実父の田中清玄は、家系から引継いだ工作員の役割だと感じます。田中玄清が御魂が上がるように、また、田中家の家系を意図して私単独で光を降ろしました。wikiに掲載された田中清玄と交流があった関係者もワークの対象に選びました。
宇都宮徳馬、大宅壮一、四元義隆、山本玄峰、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー、オットー・フォン・ハプスブルクの6人です。宇都宮徳馬(うつのみやとくま)は、田中玄清が親しくしていた人物です。wikiによると『宇都宮徳馬(1906年-2000年)は、東京府(現・東京都)出身の政治家、実業家。ミノファーゲン製薬創設者。月刊誌「軍縮問題資料」創刊者。参議院議員(2期)、衆議院議員(10期)、日中友好協会会長・名誉会長、日本北アフリカ協会会長を務めた。父は陸軍大将、朝鮮軍司令官を務めた宇都宮太郎』と記されています。
大宅壮一(おおやそういち)は、田中清玄が世話になった人物です。wikiには、『大宅壮一(1900年-1970年)は、大阪府三島郡富田村(現・高槻市)出身のジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。妻は大宅壮一文庫の理事長を務めた大宅昌、三女はジャーナリストの大宅映子。醤油屋に父・八雄、母・トクの三男として生まれた』と記されています。宇都宮徳馬と大宅壮一の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「特級工作員」「八咫烏メンバー」と伝えられました。
宇都宮徳馬が創設したミノファーゲン製薬は、当時のアドレノクロム製造に絡んでいた可能性もあります。《アドレノクロムの松利権網の源流となる渋沢栄一と高峰譲吉に関係するシミックホールディングス》など過去の調査とワークから、アドレノクロムの製造の走りとなる製薬会社は、アドレナリンを発見した高峰譲吉が設立した三共株式会社と推察しています。高峰譲吉は、渋沢栄一と共に理化学研究所の創設者でもあります。四元義隆(よつもとよしたか)は、田中清玄と親しい間柄だった人物です。
wikiによると、『四元義隆(1908年-2004年)は、鹿児島県出身の実業家、政治活動家。元三幸建設工業社長・会長。近衛文麿、鈴木貫太郎首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在として吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、福田赳夫、大平正芳、竹下登、宮沢喜一などの歴代総理と親しく(田中角栄を除く)、特に中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された』と記されています。『政界の指南役で、笹川良一、児玉誉士夫のライバル』とあり、田中清玄と同じ裏の欧州の闇の立ち位置だと分かります。
田中清玄の縁者で最も注目したのが、山本玄峰(やまもとげんぽう)です。山本玄峰は、田中清玄の師で静岡県三島市の龍沢寺の住職、終戦工作の関係した人物です。wikiによると、『山本玄峰(1866年-1961年)は、和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)の禅僧。龍澤僧堂師家(僧堂を開単)、瑞泉僧堂師家(僧堂を開単)、21代妙心寺派管長、圓福僧堂家を歴任する。生涯を通して、四国八十八箇所遍路を最晩年まで続け17回に達した。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。
鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。遺言により葬儀はなかった。世寿96歳』と記されています。《和歌山県文化情報アーカイブ》には、山本玄峰が失明していたことが書かれています。『19歳の時、目を患い闘病生活を続けるが、失明を宣告される。失意の中、弟に家督を譲り、妻と離婚して僅かな旅費を持って新潟・北陸と流浪の旅へ出る。7回目の四国遍路88カ所の霊場巡りの時、33番臨済宗のお寺「雪渓寺」の門前で行き倒れとなったところを山本太玄和尚に助けられた。
山本太玄和尚の弟子となり厳しい修行の道に入る。25歳で出家し、玄峰の号を受け、明治34年、太玄和尚の養子となり、「雪渓寺」の住職となる。京都の圓福寺で宗般老師のもとで7年間の厳しい修行を受ける。翌年、龍沢寺の住職となり復旧に着手。さらに松蔭寺の住職を兼務した後は、アメリカ、イギリス、ドイツ、インドなどを歴訪。他にも様々な寺の復興に力を注ぎ、昭和11年旧満州国の新京(現在中国の長春)に妙心寺を開創する。昭和20年、「終戦の詔勅(しょうちょく)」にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言。
また、新憲法における天皇の地位については、「天皇は空に輝く象徴みたいなもの」と、天皇の権力で派閥の抗争を始めることを戒められたという』。山本玄峰が失明していたことは、オーディンのように力のある術師であった可能性を感じます。また、昭和天皇に「終戦の詔勅」の文言を進言したことから、大物工作員の姿が窺えます。四元義隆と山本玄峰に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「八咫烏メンバー」「八咫烏」と伝えられました。山本玄峰は、当時の八咫烏の中心的存在だったと見ています。(つづく)