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早稲田大学の創立者で初代学長の大隈重信の経歴や情報については、wikiに掲載されています。『大隈重信(1838-1922)は、肥前国佐賀城下会所小路(現・佐賀県佐賀市水ヶ江町)出身の政治家。参議、大蔵卿、内閣総理大臣(817)、外務大臣(34101328)、農商務大臣(11)、内務大臣(3032)、枢密顧問官、貴族院議員。
報知新聞経営者(社主)。聖路加国際病院設立評議会会長。同志社大学社友。通貨・円の制定、日本初の鉄道敷設、政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。

 

早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注ぎ、日本女子大学の創設や立教大学の発展に携わった教育者。幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊した。

 

その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3(1914)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる』。大隈重信は、明治22(1889)10月の玄洋社の来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受けて、右脚を大腿下三分の一で切断しています。

 

大隈重信の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「明治維新をつくった人。皆で長崎で相談してつくった」と伝えられました。大隈重信は、日本の深い闇の始まりである明治維新を構築した重要人物の1人でした。長崎の佐賀藩校「致遠館」で、新約聖書、アメリカ独立宣言などを教材として、フルベッキに英語を習いました。それ故に、「フルベッキなくして大隈なし」と称せられたのが、早稲田大学の建学の祖であるグイド・フルベッキです。フルベッキの経歴や情報はwikiに記載されています。

 

『グイド・フルベッキ(1830-1898)は、オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣され活躍した法学者・神学者・宣教師。1830年 オランダ生まれ。モラヴィア兄弟団の教会で洗礼を受ける。1852年 渡米し、ニューヨークに移住。コレラに罹ったが一命を取りとめ、献身を決意すると、1855年にニューヨーク州オーバン神学校に入学。1859年には上海からの海路、サミュエル・ブラウンと共に来日し、長崎へ到着する。長崎では済美館の教師となり、村田政矩が尋ねて来て聖書の教えを請う。

 

佐賀藩が長崎に建てた英学校致遠館で1868年から教鞭をとるが、上京し大学南校の教師となる。語学・学術においての功績が喜賞され、1871年に明治天皇から勅語を賜る。大学南校を辞職したフルベッキは、政府左院翻訳顧問となる。1878年には元老院に在職し、旧約聖書翻訳委員を務める。板垣退助の仲介によって高知に渡るのは1885年で、伝道活動を行う。翌1886年に明治学院の理事となるとさらに次の年、明治学院神学部教授となる。フルベッキは1898年、赤坂葵町で没。68歳。青山霊園に埋葬された』。

 

フルベッキの御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「悪魔崇拝の伝承者」と伝えられました。フルベッキは、松取り(松果体収穫)の知恵を授けたオランダ人工作員だったと見ています。オランダは、江戸時代の鎖国の間、蘭学を通じて日本に真実を隠す「工作」の闇の叡智を伝えた国です。オランダ人工作員の中でも、フルベッキは重要な闇の役割だったと感じます。早稲田大学の建学の精神についてwikiには、『1913(大正2)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。

 

「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937(昭和12)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された』と記されています。早稲田大学教旨の草案作成者6人もワークの対象に選びました。高田早苗(1860-1938)は、現在の東京都出身の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家で、衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長などを歴任しました。

 

坪内逍遥(1859-1935)は、現在の岐阜県美濃加茂市出身の小説家、評論家、翻訳家、劇作家で、代表作に「小説神髄」「当世書生気質」及びシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えました。天野為之(1861-1938)は、明治・大正・昭和期の経済学者、ジャーナリスト、政治家、教育者、法学博士で、衆議院議員、東洋経済新報社主幹、早稲田大学学長、早稲田実業学校校長を歴任しました。高田早苗、坪内逍遥、天野為之の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろしました。

 

「工作員」「工作員」「工作員です」と伝えられました。市島謙吉(1860-1944)は、現在の新潟県阿賀野市出身のジャーナリスト、衆議院議員(3)、文化事業家、随筆家、初代早稲田大学図書館長です。浮田和民(1860-1946)は、現在の熊本県出身の思想家・政治学者で、早稲田大学高等師範部長に就きました。同志社英学校最初の卒業生で熊本バンドの一人です。松平康國(1863-1945)は、現在の長崎県出身の漢学者で、早稲田大学名誉教授です。東洋文化學會理事、東洋文化研究所教頭を歴任しました。

 

市島謙吉、浮田和民、松平康国の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「工作員。早稲田大学は裏の松取り」「工作員。現場」「工作員」と伝えられました。最後に、早稲田大学の本部所在地(東京都新宿区戸塚町)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「いいです」と伝えられました。早稲田大学は、学生たちの魂の光を封じるための役割を担ってきました。深い闇の経験は大きな光になるための糧となります。早稲田大学が深い闇の役割が反転して、大きな光の役割となることを願っています。(おわり)