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2022
1018()、朝、目覚めると右手のひらに軽い痛みがありました。ワークの場所を教えるサインでした。右手のひらは千葉県館山市の場所に当たります。《札幌すすきの「ARTビル」から結びつく東京汐留に本社を置く産業廃棄物処理会社の「エコクリーン」》にありますが、当時は、北海道旭川市のマルカツデパートの運営会社社長のコロナ給付金詐欺未遂事件から福岡県久留米市の産業用繊維資材会社/産業廃棄物処理会社の「ピラミッド」に繋がっていました。繊維産業の裏に松利権があります。

 

繊維産業の源流の「藍染(あいぞめ)」がポイントになります。藍染には、昔から「藍玉(あいだま)」が使われてきました。藍玉は、藍の葉を発酵・熟成させた染料(すくも)を突き固めて固形化したものです。藍玉の製造に用いる「発酵」を松製品に用いて闇にしてきたのです。松取りはカモフラージュが重要です。藍玉を用いた藍染は、色や匂いもあり、遺体からの松取り(松果体収穫)には最適な隠れ蓑となります。表で藍染で繊維製品を製造し、その裏で人肉や内臓の発酵塩漬けを手掛けてきたと推察します。

 

衣・食・住の最初に来る「衣」は、人間の生活で最も重要なものです。松取りによって藍染の繊維製品が闇になり、人が着る服が闇のエネルギーを帯びて人を闇にして封じることが出来ます。繊維産業の裏に松の闇を置くことは、人と土地を闇にして光を封印するためには非常に重要なのです。「藍」という自然の光を闇にすることでもあり、シリウスの光を封じる闇の叡智が使われたと見ています。今回の館山の地に関しても「藍染」が関係すると感じて検索すると「唐桟織(とうざんおり)」がヒットしました。

 

館山の唐棧織の情報については《なぜ館山には一子相伝の伝統織物があるの?》に掲載されています。『「唐桟織」をご存知でしょうか? 桃山時代にインドからもたらされた綿織物で、粋な縞模様や色調は、江戸の人々に随分もてはやされたといいます。現在も館山でひっそりと息づく伝統の技。唐桟織とは、細い木綿糸を植物を煎じた液で染め、独特の細かい縞を織り出した布のこと。もともとはインドが原産で、16世紀末の安土桃山時代にオランダ船によってもたらされたといわれています。

 

細かい縦縞や鮮やかな色調が、粋を好む江戸の人たちに受け入れられ、江戸時代半ばから後半にかけて大いにもてはやされたそうです。当時の唐桟織といえば、埼玉県の川越が有名で「川越唐桟」あるいは「川唐」などとよばれていました。ほかにも博多、西陣、堺など各地で織られており、川越などでは現在も唐桟織が織られています。ところが、昔ながらの伝統的な手法で織られているのは館山だけ』。唐桟織はインドからオランダ人経由で日本に渡ってきたことを鑑みると、元から松取りとセットだったと推測します。

 

インドと言えば「裏インドの闇」という子供の松取りの闇の源流です。オランダは、反射炉や医療などの松取り工作の叡智を日本に教授した国です。1602年にオランダで設立された「東インド会社」が、松・薬・武器・人身売買という裏の商売を手掛けていたと見ています。唐桟織は、裏の松利権の隠れ蓑なのです。引用サイトには、現在、館山で唯一唐桟織を織っている齊藤家の歴史についても記されています。『館山に唐桟織が伝わったのは明治の初めごろ。裕司さんの曽祖父にあたる齊藤茂助氏が館山に移り住んだのが始まりでした。

 

茂助氏は現在の千葉県白井市に生まれ、江戸時代は武士でした。幕末の英雄のひとり、勝海舟にも随分かわいがられたといいます。ところが明治維新によって他の武士同様失業状態に。当時、茂助氏のような職にあぶれた武士は無数におり、彼らを救済するために職業斡旋所「東京授産所」が設置されていました。茂助氏は東京蔵前にあったこの授産所で、川越唐桟の職人から唐桟織の技術を習得することになります。そして明治10年、茂助氏は唐桟織の工房を開業します。その後、病を療養するために、妻の実家があった温暖な館山へと移住し工房を移しました。

 

時は明治23年、これが館山における唐桟織の始まりです。茂助氏が伝えた技術は、2代目の齊藤豊吉氏へと受け継がれました。そんな折、日本の日用品の機能美に注目した「民藝運動」で知られる柳宗悦(やなぎむねよし)らが館山を訪れます。そこでこの技術が認められたことで、館山の唐桟織は広く世に知られるようになります』。館山における唐桟織の始まりとなる齊藤家の初代・齊藤茂助(もすけ)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「叡智を降ろした。光も含めて」と伝えられました。

 

現在、齊藤家の唐桟織を引継いでいるのは、4代・齊藤裕司です。《館山市立博物館公式サイト》によると、『齊藤裕司氏は昭和38(1963)に生まれ、館山高校を卒業後、当時女子美術大学学長であった柳悦孝氏のもとで修業し、父の光司氏と織ってきました。平成7(1995)には日本民藝館(みんげいかん)展奨励賞を受賞し、平成21(2009)317日に千葉県無形文化財に指定されました。現在は各地で個展を開催し、伝統柄のアレンジやオリジナル柄の創作など、精力的な制作活動をしています』と記されています。

 

齊藤裕司に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「この人は継いでいるだけ。日本民藝が闇」と伝えられました。「日本民藝」は非常に重要ですが、その前に、館山・藍染の検索からもう1つヒットした「館山の万祝(まいわい)」を追うことにしました。《なぜ南房総が万祝発祥の地なの?》には、『「万祝」と書いて「まいわい」と読みます。 万祝は江戸時代から戦前にかけて漁師の間で広まった大漁を祝う晴れ着のこと。漁師の勇壮果敢な生き様を表すかのようなカラフルでシンプルなデザインが施されます。

 

大漁の年の翌年の正月、神社仏閣への参詣中また網元の家で三日三晩の酒盛りを酌み交わす時に着られました。当時太平洋沿岸一帯で見られたこの万祝ですが、房総半島が発祥の地であるといわれています。・・万祝という大漁半纏(はんてん)が生まれ、正月の行事として定着した正確な年代は定かではありませんが、文化9(1812)「浦方取締書」にその記述があることから、おおよそ江戸末期に万祝風俗が発生したと考えられています』と記されています。万祝という大漁半纏にも裏の松取りが潜む藍染が用いられています。(つづく)