南房総の万祝(まいわい)の情報が掲載されているサイトの《なぜ南房総が万祝発祥の地なの?》には、非常に有用な内容が含まれています。『万祝という大漁半纏が生まれ、正月の行事として定着した正確な年代は定かではありませんが、文化9年(1812)「浦方取締書」にその記述があることから、おおよそ江戸末期に万祝風俗が発生したと考えられています。この古文書が書かれた時期、房総はイワシ漁において未曾有の好景気を迎えていたことが知られており、イワシ成金と呼ばれる有力な網元が数多く登場していました。
彼らの資本はさながら10万石クラスの大名に比肩するほどであったと言われ、江戸から文化人を招いては逗留させ、贅沢三昧の毎日を送っていたのです。・・またそもそも、漁民芸術として万祝という大漁半纏が房総半島で華々しく誕生した背景には、その生地となる木綿や藍染の染料である藍玉がイワシそのものと深い関わりをもっていることにありました。
「…綿や藍の栽培に欠くことのできなかった肥料が干鰯(ほしか)であった。干鰯はイワシを天日干ししたもので、肥効の良さに加え、大量生産や運搬の容易さによって、これらの栽培の増加に合わせて需要が急増していったのである。
木綿業の発達が、藍生産、干鰯生産を波及的に発達させたのである。」(「黒潮が育てた漁民芸術の華―万祝」仁科又亮、小島孝夫他著/岩崎美術社1992年p155) イワシを天日に干した干鰯は、商品作物の生産が急増しつつあった江戸末期において従来の草肥や糞尿を中心とした施肥に代わる効率の良い肥料として大変重宝されたようです。この干鰯の登場によって作物の生産量は飛躍的に高まり、これと同時に万祝の原料である木綿と藍玉の生産量も急速に伸びていきます。イワシが大漁に漁獲された房総地方においては運搬のコストなども相まって干鰯を利用する作物である木綿の生産が盛んに行われるようになりました』。
「網元」とは、漁網や漁船を所有する漁業経営者のことです。「イワシ成金と呼ばれる有力な網元が数多く登場していた。彼らの資本はさながら10万石クラスの大名に比肩するほどであった」ことから、網元が松利権に深く関与していたことが窺えます。網元は、船の所有者であり、松利権網において、廻船業や海運業と同様に、遺体や松製品を運搬する役割がありました。「綿や藍の栽培に欠くことのできなかった肥料が干鰯(ほしか)であった」ことが、網元の松による金儲けのカモフラージュになるのです。
また、引用サイトでは、万祝の衰退した理由にも言及しています。『現在においても万祝という芸術は小規模ながら根強く残っていることを知ったところで、なぜ習俗としての万祝という文化が漁師の内に消滅してしまったのかに少し触れてみましょう。これには2つの理由があると考えられています。①世界大戦によって数々の下絵や万祝そのものが消えてしまったこと。②戦後イワシが長い期間全く獲れなかったこと』。表向きの理由はそうかもしれませんが、万祝の衰退した理由は、裏の松製品が深く関わっていたと見ています。
《北海道のタルタリアを隠した石狩など5つの缶詰工場》にありますが、1877年(明治10年)10月に日本最初の缶詰工場である「石狩缶詰所」が北海道石狩市で創業しました。要するに、松製品が藍染の藍玉をカモフラージュにした「人肉発酵塩漬け」から「缶詰」に大きく変化したのです。裏の松製品が缶詰に変わったことで、表の万祝やイワシで金儲けしていた関係者たちは、金儲けの拠り所を失いました。裏の(人肉内臓)の缶詰が生まれたことで、支配層の松製品の大量生産による巨額資金稼ぎの仕組が構築されたのです。
引用サイトに掲載された、万祝の伝統と技術を引き継ぐ「鴨川万祝染元
鈴染三代目・鈴木幸祐」と、南房総が万祝の発祥地である情報を提供した、南房総市白浜町にある「白浜海洋美術館名誉館長・柳和子」をワーク対象に選びました。《萬祝 大胆な色彩を誇る伝統的染色技術》によると鈴木幸祐の経歴は、『1954年千葉県鴨川市生まれ。東京理科大学理工学部卒業後、家業である萬祝染めの三代目を継承。1997年萬祝が千葉県指定伝統的工芸品に指定。色彩検定1級、クリーニング師、危険物取扱者、ボイラー技士など資格取得が趣味』と記されています。
白浜海洋美術館名誉館長・柳和子の情報は引用サイトに記載されています。『和子さんは若い頃東京で仕事をしておりましたが、夫である故柳八十一さんとともに白浜に旅行に出た時、海女の休む小屋にて万祝に出会います。そこでその美しさに衝撃を受けたご夫妻は、万祝が消滅しつつある当時の惨状をみてこれらを後世に残さねばと立ち上がり白浜へ移住しました。その後海洋民族の誇りとしての漁民芸術を蒐集するため全国を旅して回り、そこで集めた美術品をもとに1965年に白浜海洋美術館を開館』。
鴨川万祝染元 鈴染三代目・鈴木幸祐、白浜海洋美術館の名誉館長・柳和子と所在地に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「工作員」「術師」「いいです」と伝えられました。ちなみに、「鈴木」姓の源流は熊野神社神官や雑賀衆の八咫烏だと分かっています。引用サイトの記述から南房総の万祝が美術の世界にも裏の松の闇が影響を与えたことが窺えます。『万祝といえば藍染による木綿の羽織といった観点も特徴的ですが、なんといってもその大胆で豪快なデザインが作品の肝をなしているといえます。実は、このデザインが描かれた歴史的な背景が万祝成立に大きく関わっています。
新天地を求めた江戸の絵師たち「江戸の絵師、特に浮世絵以外の凋落してしまった狩野派の末流の絵師にとっては、生活の糧を求めるべく、このような俄の富裕階級を訪れるようになった。知識階級に属するこのような絵師が、網元のところに滞在しながら、江戸の文化を吹き込みながら軸物・屏風絵を描き、或は村の幟や社寺の絵馬を描く。…やがて、紺屋に頼まれて着物の裾にデザインを考案、図案上背紋を描くようになった。」(「黒潮が育てた漁民芸術の華―万祝」仁科又亮、小島孝夫他著/岩崎美術社1992年p19)
江戸末期、明治維新の流れと共に日本美術は大きな動揺のなかにありました。その大きな変化の一つが引用のうちにある狩野派の没落です。プロの専門絵師集団として400年もの歴史を貫いてきた狩野派でしたが、封建社会システムと歩調を合わせる形で発展を遂げてきたこの一派は、江戸幕府の崩壊とともに庇護者を失い路頭に迷うこととなりました(参考「御用絵師 狩野家の血と力」松木寛著/講談社1994年)』。日本絵画史上最大の画派である「狩野派」が万祝を隠れ蓑にした松利権の世界に深く関わっていたのです。(つづく)