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学者一族としての箕作家の源流は、近世の蘭学者・箕作阮甫(みうつくりげんぽ)です。箕作阮甫の情報はwikiに記載されています。『箕作阮甫(1799-1863)は、美作国西新町(現・岡山県津山市西新町)の武士・津山藩士、蘭学者である。[略歴]津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として生まれる。医家としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業した。父貞固の代になり天明21024(17821128)津山藩主松平家の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。

 

阮甫は4歳で父をなくし、12歳で兄豊順をなくして、家督を相続することになる。幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。[系譜]阮甫の子孫には有名な学者が多数輩出している。婿養子に箕作省吾・箕作秋坪が、娘婿に呉黄石が、孫に箕作麟祥・箕作佳吉・箕作奎吾・箕作元八・菊池大麓・呉文聰・呉秀三らが、孫娘の夫に坪井正五郎らが、曾孫に菊池正士・坪井誠太郎・坪井忠二・呉建・呉文炳・呉茂一らが、曾孫の夫に石川千代松・長岡半太郎・美濃部達吉・鳩山秀夫・末弘厳太郎らがいる』。

 

箕作阮甫は、蘭学者・医者なので明らかに松取り工作員だと感じます。箕作家は、血縁関係のない婿養子をとって家系を引継いできていることが分かります。箕作阮甫の婿養子が箕作秋坪(みつくりしゅうへい)です。箕作秋坪は、「明治天皇=箕作奎吾」説の「箕作奎吾(みつくりけいご)」の実父です。箕作秋坪の情報はwikiに記されています。『箕作秋坪(1826-1886)は江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家。[生涯]文政8(1826)、備中国(現・岡山県)の儒者・菊池陶愛の次男として生まれた。

 

はじめは美作国津山藩士の箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。嘉永3(1850)、阮甫の二女・つねと結婚して婿養子となり、つねとの間に、長男・奎吾(夭折)、次男・数学者の大麓、三男・動物学者の箕作佳吉、四男・歴史学者の箕作元八の4男をもうけた。 幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事する。安政6(1859)、幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝となる。文久元年(1861)の幕府による文久遣欧使節に福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行しヨーロッパを視察する。

 

慶応2(1866)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣される』。箕作秋坪も箕作阮甫を引継ぐ工作員と捉えました。箕作秋坪の四男が「箕作元八(みつくりげんぱち)」です。wikiによると『箕作元八(1862-1919)は、美作国(岡山県)津山生まれの歴史学者。[略歴]1862(文久2)、湯島中坂下(現・東京都文京区)にあった祖父・箕作阮甫の家で生まれた。父・秋坪が開設した私塾・三叉学舎で学び、14歳で東京英語学校に入学。1885(明治18)、東京大学理学部動物学科を卒業。

 

動物学研究のためドイツ・フライブルク大学に留学するも、近眼のため顕微鏡の使用に困難を感じ、西洋史学の研究に転向した。ハイデルベルク大学・テュービンゲン大学などでトライチュケやランケの指導を受け、1891(明治24)テュービンゲン大学で博士号を取得。1892(明治25)に帰国。高等師範学校教授となり、1893(明治26)には第一高等中学校教授となる。更に1900(明治33)から翌年にかけてフランスなどに留学し、政治史やフランス革命の研究にあたる。帰国後の1902(明治35)、東京帝国大学教授となる。

 

近代フランス史を講義、「西洋史講話」や「仏蘭西大革命史」、「ナポレオン時代史」などを著した。 1919(大正8)、脳溢血のため58歳で急死した。昭和天皇は「自分の人生と知的発達に最も影響を与えたのは、ドイツに留学し、後に日本における西洋史の権威となった日本人教授、箕作元八である」とニューヨークタイムズの197238日付インタビュー記事の中で述べている』と記されています。箕作元八は、祖父・箕作阮甫、父・箕作秋坪の家系の工作員を引継いていると見ています。

 

箕作阮甫箕作秋坪(箕作阮甫の婿養子)箕作元八(箕作秋坪の四男)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「中国人」「上級同和」「八咫烏」と伝えられました。箕作家の始祖となる箕作阮甫は、中国人であり、裏の欧州の闇の勢力(フリーメイソン天皇派)に重きを置く八咫烏工作員だと感じます。「明治天皇=箕作奎吾」説の「箕作奎吾(みつくりけいご)」についての情報は、箕作奎吾の実父である「箕作秋坪(みつくりしゅうへい)」のウィキペディアに記載されています。

 

『長男・箕作奎吾 - 慶応2(1866)年、15歳で幕府留学生として弟の大六らとともにイギリスへ留学。明治4年大川にて溺死』。箕作奎吾は溺死したといいますが、水原紫織の説では「明治天皇=箕作奎吾」だとされます。箕作奎吾の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「本当に死んでいると思う。水原は箕作家の血筋かもしれない」と伝えられました。表の米国(朝鮮)の闇の勢力(米国派)による「昭和天皇=大室寅之祐」説に対抗して、裏の欧州(中国)の闇の勢力(天皇派)が「明治天皇=箕作奎吾」説を打ち出して来たと感じます。

 

水原紫織が箕作家の血筋をひく子孫とすると、尚更、箕作家を権威づけることになり有益でもあります。また、「昭和天皇=大室寅之祐」説の対抗として「明治天皇=箕作奎吾」説をぶつけることで、2つの説を戦わせて八咫烏の真実を隠蔽する働きにもなります。私が着目したのは、箕作阮甫が岡山県津山市の出身であることです。《児童福祉に貢献した岡山四聖人に隠された原始キリスト教の闇と岡山に生まれた八咫烏の始祖・吉備真備》にありますが、岡山県は、八咫烏の始祖ともされる術師の「吉備真備」の出身地でもあります。

 

吉備真備は遣唐使の留学生でもあり、中国とは深い関係を持ちます。吉備真備の「吉備」は「吉備国」に由来します。「吉備国」は、現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部の地域です。裏の欧州派(中国)勢力である天皇派の拠点の源流が、現在の岡山県・広島県の地にあったと見ています。《天皇派の拠点であった広島の地》にありますが、原爆投下の場所が広島であった理由の1つが米国派が天皇派の拠点を潰すことだったと感じます。いずれにしても、日本を封印してきた八咫烏の闇の仕組が終わることを願っています。(おわり)