満洲重工業開発株式会社の初代総裁は、日産自動車の創業者で日産コンツェルン総帥・鮎川義介であり、副総裁に就いたのが東洋製罐の創業者・高碕達之助でした。鮎川義介総裁が辞任した後、高碕達之助が総裁に就いています。高碕達之助が設立した東洋製罐は、支配層の松製品である裏の缶詰を製造するのに必須の「缶」を製造供給する会社です。《支配層が裏で販売する松製品としての缶詰から繋がる日本DS勢力となる製缶業界最大手の東洋製罐》から東洋製罐が支配層の松の缶詰に繋がる重要な会社であることが分かります。
ウィキペディアには、高碕達之助の経歴が記載されています。高碕達之助を時系列で追っていくと、支配層の裏の缶詰の松製品がどのような領域に関係しているのか、その全体像が垣間見えてきます。『1917年に50万円の資本金で大阪に製缶会社「東洋製罐」を立ち上げた』『1937年に日中戦争が勃発すると鉄の供給は滞り始め、満州重工業開発へ鉄を譲ってもらうための交渉へ向かう事を考えたが、時局柄、満州で鉄生産を手伝うことになり、満州重工業開発副総裁に就任した』
『1952年、当時の内閣総理大臣・吉田茂に請われ「電源開発」の初代総裁に就任した』『1958年には第2次岸内閣の通商産業大臣に就任し、全ての会社の重役を辞任。同年、日ソ漁業交渉の政府代表となり、北方領土付近の漁の安全操業のために尽力した。1959年、科学技術庁長官、原子力委員会会長も兼務するが、辞任。同時に大日本水産会会長に就任』。高碕達之助は、1917年に東洋製罐を設立し、1937年に満州重工業開発副総裁に就任します。1952年に電源開発の初代総裁に就き、1958年に通商産業大臣に就任しました。
日ソ漁業交渉の政府代表となり北方領土付近の漁の安全操業に尽力します。1959年、科学技術庁長官、原子力委員会会長も兼務します。同時に大日本水産会会長に就任します。電源開発は、水力・火力・原子力の発電所を持つ電力会社です。国内拠点だけではなく、タイを中心に海外拠点や海外法人を多数有しており、明らかに松権ネットワークを構成していると感じます。裏の缶詰の松製品という松利権が発電所に絡んでいることが窺えます。当時の通商産業省は、現在の経済産業省であり、電力会社や発電所を管轄します。
《血液製剤をつくる日本赤十字社と放射性物質を運ぶ原燃輸送から繋がる原発に隠されたアドレノクロム施設》などから原発などの発電所の裏には、アドレノクロムが象徴する松利権関連の施設があると見ています。また、高碕達之助は北方領土にも深く関係しています。《国後島中心に50箇所の缶詰工場が存在した北方領土》にありますが、日清戦争(1894年-1895年)を機に明治40年(1907年)代には、国後島を中心に北方領土に50箇所の缶詰工場が稼働していました。表では、サケやカニの缶詰を製造していました。
しかし、裏では人肉・内臓塩漬けの松の缶詰をつくっていたと推測しています。北方領土問題や北方領土返還運動は、支配層による北方領土に隠された松利権拠点を隠すためのカモフラージュ工作だと見ています。昔の裏の缶詰工場などの松施設は、今は地下に隠されていると感じます。北方領土だけでなく知床半島も松の地下施設がある可能性が高いです。《DSの松利権網の地下施設を隠して裏の金儲けのために人集めをするユネスコ世界遺産センター》にありますが、知床半島の半分以上が世界遺産になっており、立入禁止区域です。
世界遺産は、知床半島の真実を隠蔽するための隠れ蓑であり、地下に大きな闇の施設が存在すると見ています。2022年4月23日に起きた知床観光船事故は、日本の人々に知床半島に目を向けさせる「Q」の意図があったのです。東洋製罐の創業者で満州重工業開発の初代副総裁の高碕達之助の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。高碕達之助は、重要な八咫烏の工作員だったと思います。満州重工業開発は、満州国の経済運営で南満洲鉄道が巨大な影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じて、鮎川義介が設立しました。
高碕達之助は、1942年に鮎川義介に代わり総裁になりましたが、軍部の圧力により会社の統制が執れない状態となり、かなり苦労した様子がwikiに書かれています。「関東軍」を追っていくことにしました。「関東軍」の情報はwikiに記載されています。『関東軍は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。大日本帝国が中華民国から租借していた、遼東半島先端に位置する関東州の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれた。
満州事変を引き起こして満州国を建国し、日満議定書(1932年9月15日)後は満州国の首都である新京(現中華人民共和国吉林省長春市)に移転した。現地の佐官級参謀陣が自らの判断で、政府の不拡大方針を無視して柳条湖事件や張作霖爆殺事件などの謀略事件を強行し、その後の支那事変や太平洋戦争に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす要因となった。関東軍は規模を拡大させ、1941年(昭和16年)の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、1945年(昭和20年)8月9日のソ連侵攻で壊滅するまで、満州国の実質的な統治を行った』。
関東軍が関係した戦闘・事件等の項目に『・張作霖爆殺事件(1928年) ・柳条湖事件(1931年) ・満州事変(1931年) ・ノモンハン事件(1939年) ・ソ連対日参戦(1945年) ・東安駅爆破事件-撤退に当たって弾薬を爆破処分した際、民間人多数が巻き込まれ死傷した事件』と記されています。戦争そのものが支配層の裏の金儲けとなる松取り工作だと分かっています。戦争に伴う軍隊は松取り部隊です。関東軍は、中国・満州において多くの工作活動を成して、松取り(松果体収穫)のための遺体集めを行っていたのです。(つづく)