関東軍のwikiには、目に留まった興味深い内容が2箇所あります。1つは、『関東軍は在留邦人の保護に人員を割くことを殆どしなかったために、葛根廟事件などの民間人が虐殺される事件が発生し、「邦人を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった』という内容です。内乱・動乱を起こして人命を犠牲にした松取り工作が行われていたことを暗示します。2つの勢力を対立させて戦わせることで、利益を得るのが八咫烏の手法です。もう1つが、玉音放送があった終戦の後のシベリア抑留の記述です。シベリア抑留は、約57万5千人が抑留され強制労働などで約5万8千人が死亡したというものです。
『停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田乙三や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部も、11年間の長期にわたって抑留される』。ソ連の捕虜としてのシベリア抑留は、八咫烏の役割だった日本軍の松取り(松果体収穫)の工作だと見ています。シベリア抑留のwikiには、「関東軍密約説」の記述があります。『 8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。
帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は、関東軍参謀だった草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍の山田乙三総司令官と秦彦三郎総参謀長の決定を受けて作成し、ソ連側に送付したものだという。・・ソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかという疑惑が、全国抑留者補償協議会(全抑協)会長の斎藤六郎や、近代史が専門のノンフィクション作家保阪正康らによって主張されている』。
「シベリア抑留」は、戦争という名の支配層の松取り工作と同じ構図です。大本営や軍のトップは、敵対するソ連と裏で手を組んで、若い兵士や市民を犠牲にした金儲けを行っていました。「シベリア抑留」の主体は、昭和天皇をトップとする八咫烏という日本の支配層です。その客観的な証となるのが「瀬島龍三」です。瀬島龍三は、陸軍中佐として11年間の長期にわたってシベリアに抑留されたといいますが、ソ連と手を結んで松利権工作を成した黒幕だと見ています。「瀬島龍三」は「三」がつくことから八咫烏の特級工作員だったと感じます。
《戦後補償ビジネス、ODA利権に繋がる暗闇の仕組を創った黒幕・瀬島龍三》にありますが、瀬島龍三は、表の米国派(ロックフェラー)に対抗する裏の欧州派(ロスチャイルド)に主軸を置く八咫烏工作員であり、大本営、陸軍参謀の人脈を利用して、天皇、首相、経済人、メディアなど日本の支配層を動かし、日本を暗闇にして来た優秀な頭脳を持つ諜報部員でした。日本軍による満州国やシベリア抑留で行った松取り工作の闇は、ロシアの極東、北方領土、北海道を含めたタルタリアという自然が有する地底の光のエネルギーラインを封印する役割もあったのです。
関東軍のwikiを読んで、関東軍の初代と最後の司令官2人と気になる3人をワークの対象に選びしました。張作霖爆殺事件の計画立案者とされる「河本大作」、関東軍初代司令官の「立花小一郎」、関東軍最後の総司令官の「山田乙三」、ユダヤ専門家の陸軍大佐の「安江仙弘(やすえのりひろ)」、日本のピラミッドの発見者の「酒井勝軍(さかいかつとき)」の5人です。河本大作(1883年-1953年)は、wikiによると『昭和初期に活動した兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)出身の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の計画立案者として知られている。大佐で関東軍参謀時、張作霖爆殺事件を起し、停職、待命、予備役編入』と記されています。
wikiの内容を読むと河本大作は張作霖爆殺事件の首謀者としての濡れ衣を着せられたと感じました。河本大作の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「無念の死」と伝えられました。やはり河本大作は無実の罪で処罰されたようです。立花小一郎(1861年-1929年)は、wikiによると『福岡県出身の陸軍軍人、政治家。男爵、陸軍大将、第10代福岡市長、貴族院議員。万延2年(1861年)、三池藩家老・立花景福の長男として生れる』とあります。wikiによると、山田乙三(1881年-1965年)は、『長野県出身の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。最後の関東軍総司令官として玉音放送による「聖断」を受諾し、ソ連軍に降伏した。
1945年(昭和20年)8月9日、ソ連軍が対日参戦、当日は大連に出張中であり急遽新京に帰還する。総司令部を通化に撤退させ持久戦を図るが、15日には日本のポツダム宣言受諾により終戦詔書が発布される。19日にはジャリコウヴォのワシレフスキー元帥(極東ソ連軍総司令官)との停戦交渉を開始。その後は関東軍総参謀長秦彦三郎や総参謀副長松村知勝、作戦主任参謀草地貞吾らとともにソ連に抑留され10年以上経って日本へ帰国した』と記されています。関東軍初代司令官・立花小一郎と関東軍最後の総司令官・山田乙三の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「汚い同和。NHK党の立花の過去世」「表の人」と伝えられました。NHK党党首・立花孝志は、今世でも同和の工作員と捉えています。山田乙三には、表の支配であるシリウスの闇を感じます。5人のワーク対象の中で最も注目したのが、ユダヤ専門家の陸軍大佐の「安江仙弘」です。wikiによると、『安江仙弘(1888年-1950年)は、秋田県出身の日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍大佐。帝国陸軍におけるユダヤ問題の専門家として知られる。1918年、シベリア出兵に出征し、シベリアでグリゴリー・セミョーノフなど白衛軍の将校と接した。
「シオン賢者の議定書」という反ユダヤ主義の古典の存在を知り、日本に帰国後同書を翻訳。1924年、包荒子のペンネームで「世界革命之裏面」という本の中で初めてこの本の全文を日本に紹介した』と記されています。安江仙弘は、八咫烏としてユダヤ人を配下におさめて利用していたと感じます。1927年ユダヤ研究を命じられた安江仙弘が、パレスチナやエジプトから欧州を視察する際に、英語通訳として同行したのが「酒井勝軍」です。wikiによると、『酒井勝軍(1874年-1940年)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。
安江と酒井はシベリア出兵からの友人であり、酒井にシオン賢者の議定書を出版させたのも安江だと言われている。「進んで米国を敵とすべし」刊行。1927年(昭和2年)安江と酒井はパレスチナやエジプトに、大日本帝国陸軍からユダヤ研究のために派遣された。それ以来、安江は親ユダヤ主義傾向を強めている。安江も大日本帝国陸軍特務機関に勤めながら、日ユ同祖論の書籍を出版している』とあります。安江仙弘は、大日本帝国陸軍特務機関に勤務していたので、ユダヤ専門家としての八咫烏工作員です。
シベリア出兵からの友人であったという、安江仙弘と酒井勝軍は、陸軍の八咫烏工作員としてユダヤに対する偽装の対立構図をつくる工作を行ったと感じます。酒井勝軍は、葦嶽山(広島県庄原市)などの重要な光の山をピラミッドと称して松取りの闇を置いて封印していったと見ています。シリウスの光に繋がる先住民が大事にしていた光の山を闇に変えていったのです。葦嶽山には、2014年11月の広島巡礼の旅で訪れており、ワークの内容を《広島 葦嶽山 ~巡礼の旅(167)~》に記載しています。
葦嶽山山頂で光を降ろすと、闇の宇宙存在から「我々はここからひとまず退去する」と告げられました。今から思うと、その時の宇宙人はアーク(アークトゥルス)だったと感じます。アークはシリウスの光を封印するエゴの闇の仕事をしていました。安江仙弘と酒井勝軍の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「上級工作員」「この人は宇宙人。人間じゃない」と伝えられました。やはり安江仙弘は、八咫烏の重要工作員でした。関東軍は、満州・シベリア・極東などのタルタリアというシリウスの光を封印するために、真実を隠す工作と松取りの闇の仕事を成していたのです。(つづく)