ハバロフスクのwikiの歴史の項目には、『1917年にロシア革命が起こると、極東地域は反革命軍が制圧し、1918年にはシベリア出兵により日本軍がハバロフスクを占領した。その後、1920年に日本軍は撤退して極東共和国が成立し、1922年に日本軍がシベリア出兵を終了すると、ハバロフスクはソビエト政権の支配下に入った』と記されています。日本とロシアの関係の歴史で欠かせない出来事が「シベリア出兵」です。シベリア出兵も他の戦争と同様に支配層の松取り工作と捉えています。
「シベリア出兵」に関して調査とワークを行っていきました。wikiには、『シベリア出兵とは、1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった』と記載されてます。
また、wikiの右欄には『戦争:ロシア内戦(対ソ干渉戦争) 年月日:1918年8月–1922年10月 場所:シベリア東部 結果:連合軍の撤退 交戦勢力:【白軍】 大日本帝国・イギリス・フランス共和国 ・イタリア王国・アメリカ合衆国・カナダ・中華民国【赤軍】
極東共和国・モンゴル人民党』とあります。コトバンクによると『日本は戦費約10億円を費やし、死者は3000人を超えるという犠牲を払った』と記されています。戦争の大義名分を掲げて、ロシアで松取り工作の戦争を行って遺体や子供を集めていたと推測しています。
大東亜戦争などの大日本帝国軍の戦争の手法は、ビルマ(現・ミャンマー)などで「欧米列強の支配からのアジアの解放・独立」を名分にして、反体制派を支援して戦いを起こしてきました。しかし、その実は、体制派と裏で手を組んで八百長の戦いを行い、松取りの金儲けのために一般市民や若い兵士たちの命を犠牲にしてきました。シベリア出兵の名目は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」というものです。シベリア出兵(シベリア干渉戦争)は、白軍と赤軍の対立構図ですが、上層部では繋がっているプロレスです。
「2者を戦わせて利益を得る」という日本の支配層・八咫烏の得意とする工作の手法です。シベリア出兵に関して、日本の政治家の間では、積極的出兵論者と消極的出兵論者の2つのグループに分かれていました。wikiにある『参謀本部と後藤新平らと共に積極的出兵論者だった』という「本野一郎」と『参謀本部・本野一郎・後藤新平らの積極的出兵論者と対立した消極的出兵論者』だったという「山縣有朋」の2人を選んでワークの対象としました。本野一郎の情報はwikiに書かれています。
『本野一郎(1862年-1918年)は、明治、大正の外交官、政治家である。肥前国佐賀久保田徳万村生まれ。11歳で渡仏し、3年間パリで学ぶ。横浜の小学校を卒業後、東京外語学校へ進学。18歳で横浜貿易商会に入社し、リヨン支店に赴任。フランス滞在が8年ほど過ぎたころ、外務大臣だった大隈重信に誘われ帰国し、陸奥宗光外務大臣の秘書官となる。その後、ベルギー、フランス、ロシア公使を経て、ロシア大使に就任。10年に渡るロシア駐在中の功績から子爵が授けられ、寺内内閣の外務大臣へと出世したが、胃癌を発病し辞職、57歳で亡くなる』。
山縣有朋の情報もwikiに掲載されています。『山縣有朋(1838年-1922年)は、現在の山口県萩市川島出身の政治家。最終階級・称号は元帥陸軍大将。内務卿、内務大臣、内閣総理大臣、司法大臣、枢密院議長、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長を歴任した。長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治維新後の1869年に渡欧し、各国軍制を視察して1870年の帰国後に兵部大輔に就任。
西郷隆盛とともに御親兵の組織と廃藩置県に尽力。1909年の伊藤博文の死後には軍の巨頭として元老内の最有力者となった』。山縣有朋は、過去のヒプノセラピー《松下村塾から続く学校の仕組を変えなければいけない》にも出てきており、軍と政治の裏の力を持っていた人物でした。日本の支配層の重鎮の闇の役割だったと分かっています。シベリア出兵について積極的出兵論者の本野一郎(1862年-1918年)と消極的出兵論者の山縣有朋(1838年-1922年)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。
「八咫烏」「工作員」と伝えられました。また、シベリア出兵のwikiの中で、私が着目したのが「ポーランド孤児の救済」です。『ロシア帝国はポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド戦災孤児がシベリアに取り残されたが、その保護のために力を貸す国はなかった。その惨状を知った日本側は日本赤十字社を中核としてシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させた。
1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした。また、これとは別に1920年9月からは、日本の福田会など複数の孤児院が戦災孤児数百人の引き取りを始め、後にポーランドへ帰還させた』。ポーランド孤児の救済には、アドレノクロムの闇が潜む日本赤十字社が絡んでおり、支配層の松工作だと見ています。戦災孤児数百人を引き取ったという「福田会」を追うことにしました。(つづく)