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世紀終わりから20世紀初めの頃のダライ・ラマ13世の時代のチベットは、中国の清国、英国、ロシアという3つの帝国の松工作の標的にされ、戦乱という松取りの草刈り場にされていました。ダライ・ラマ13世に深く関係した工作員としての日本人が幾人もいます。ダライ・ラマ13世のwikiに記載されている日本人名を含む文章をピックアップしました。『日本人として史上初めてチベット入国を果たした仏教僧・河口慧海が、チベット人僧侶に扮して(一部の人に対しては実は支那人僧侶であると偽り)ラサに滞在したのはこの頃(1901-1902)である』。

 

19084月に中国山西省の五台山に到着した。五台山ではアメリカ大使ウィリアム・W・ロックヒル、西本願寺の大谷尊由などと面談している。さらに1014日、北京で西太后、光緒帝と面談している。この際、日本大使館にも1週間滞在している。在北京大使の林権助が厚くもてなしたのと、五台山で大谷尊由が日本が仏教国であることを説いたため、以後、13世はかなりの日本びいきになった』。日本人で初めてチベット入国した仏教僧・河口慧海(かわぐちえかい・1866-1945)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。

 

ダライ・ラマ13世と中国・五台山で面会したアメリカ大使のウィリアム・W・ロックヒル(1854-1914)、西本願寺の大谷尊由(おおたにそんゆ・1886-1939年・浄土真宗本願寺派第21世法主大谷光尊の5)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」「ユダヤ」と伝えられました。また、wikiの中の次の内容から留学僧の多田等観と軍事顧問の矢島保治郎をワークの対象に選びました。『日本からの留学僧多田等観は13世の信頼を受け、たびたび諮問される立場だったため、多田が日本に帰国する1923年にチベットのさらなる近代化を勧めた。

 

しかし、「急いで本来の精神文化を無くすことになってはいけない。外国への留学生が成果を持ち帰るのを待っている」という旨を返答している』『13世はチベットに外務省を設立し、軍司令官をダサン・ダデュルに更新し、軍事顧問に日本の矢島保治郎を招いた。(ただし全軍の編成はイギリス式を採用した)』。留学僧の多田等観は、wikiによると『1956(昭和31)、財団法人東洋文庫に迎えられ、ロックフェラー財団の支援のもと設立されたチベット学研究センターの主任研究員となり、その後は亡くなるまで後進の育成にあたった』とあり、米国派工作員だったことが分かります。

 

留学僧の多田等観(1890-1967)、軍事顧問の矢島保治郎(1882-1963)の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」「八咫烏」と伝えられました。また、ダライ・ラマ13世の教学顧問であった青木文教(1886-1956年・チベット-西本願寺間の交換留学生)、ダライ・ラマ13世と19085月に五台山で82日に大谷尊由などとともに会見した寺本婉雅(てらもとえんが・1872-1940年・東本願寺の僧)、寺本婉雅と共に日本人初のチベットに到達した能海寛(のうみゆたか・1868-1903年・真宗大谷派の僧)の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 

「八咫烏。兵隊」「八咫烏。兵隊。拙攻」「偽装死」と伝えられました。ダライ・ラマ13世に関係する日本人工作員はいずれも八咫烏の仕事を担っていたと感じます。それは、八咫烏がダライ・ラマ13世を操り、チベットでの松工作を行っていたとも言えます。能海寛の最期についてwikiには、『1901(明治34)418日、今度は雲南省の大理府から「今からチベットに入るため音信不通となる」という内容の手紙を発信した後、消息を絶つ。その後、伊東忠太一行がミャオ族の建築物研究に雲南省のチベット国境付近に赴いた際の調査を行った。

 

それにより、能海は1903年(明治36年)ごろに同地で土賊に襲われ死去したらしいということが判明した』と記されています。能海寛は、八咫烏が得意の生きていることを隠した偽装死を使ったようです。黄砂の3大発生地のタクラマカン砂漠・ゴビ砂漠・黄土高原に何かしら人工的な拠点があると感じて、ネットで情報収集を行いました。20111117日の「カラパイア」の記事《極秘軍事施設?グーグルマップで発見された巨大な謎の構造物(中国)》には、非常に興味深い画像が掲載されていました。

 

『グーグルマップ(グーグルアース)によって発見されたという中国のゴビ砂漠にある巨大な謎の建造物。もともとはネットユーザーがたまたま発見したものだそうだが、極秘施設?謎の遺跡?などと、その規模の大きさにアメリカではテレビニュースでも報道されるほどの注目を集めることとなった。なお、この地域に関心を寄せ、人工衛星によって何かを見つけようとしたのは、今回のネット・ユーザーたちだけではないという。・・(下記画像)砂漠上にはミステリーサークルばりの巨大で謎の構造物が多数存在している。そのいくつかの画像を見ていくことにしよう。

 

白い漢字が点在する山と、中央にある施設。貯水池のようにも見える施設。周りにまったく植物のない砂漠で青々と木々が茂っているかのように見える場所。整備された区画のような場所。不規則な線が長方形の図形の中に。ミステリーサークル系?不自然に青く輝く屋根のある構造物。アンテナ・ファーム?HAARP?変電所?自分の目で確かめたい人はこのあたりのグーグルマップをまさぐってみるといい。ほかにも怪しげな構造物の画像が公開されていたので一挙に見てみよう。各画像には座標が記してあるので、グーグルマップ上で座標を打ち込み確認することができるよ』。

 

「カラパイア」が指摘している3つのポイントの座標をグーグルマップで打ち込んでみると、やはり謎の構造物がありました。(1)ライトブルー(水色)の建物に見える施設(40°27'43.6"N 90°47'11.6"E - Google マップ)(2)3機の飛行機が置かれた同心円の基地(40°27'31.0"N 93°18'47.3"E - Google マップ)(3)掲載された動画で説明されている幾何学模様(Xのルーン文字)の滑走路(43°04'51.8"N 92°48'26.9"E - Google マップ)3つのポイントです。(1)(2)(3)のポイントは、グーグルマップで見る限り、何かの工作拠点だと感じます。

 

(1)のライトブルー(水色)の建物に見える施設、(2)3機の飛行機が置かれた同心円の基地、(3)Xのルーン文字のような幾何学模様の滑走路に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「何か地下でやっている」「工作場所」「発着場」と伝えられました。ワークを行った4/19時点では分かりませんでしたが、この記事を書いている時い気づいたことがあります。(1)の施設のライトブルー(水色)は、青色に緑がかった色の「金春色(こんぱるいろ)」です。銀座覆面強盗事件の時計店のある通りの名前でもあります。

 

銀座覆面強盗事件の現場から繋がる能楽の始祖・秦河勝と逃走車のNo「大宮333ぬ314」が暗示する八咫烏》にありますが、58日に起きた銀座覆面強盗事件の現場となる「ロレックス専門店 クォーク銀座888店」の住所は「東京都中央区銀座8-8-8 銀座888ビル1F」であり、「銀座888ビル」は、「銀座 金春通り」に所在しています。「銀座 金春通り」のオフィシャルサイトには、『金春通りは昭和40年代まで多くの芸者の集る花街として賑わいました。この花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」です。

 

青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されています』と記されています。「銀座 金春通り」の名前の由来については、『江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来しています。江戸時代、幕府直属の能役者として土地や俸禄を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家があり、最も歴史のある金春家は室町時代以来繁栄し、江戸時代初期から観世太夫とともに江戸で能を演じていた名家で、屋敷なき後も、この地にその名を留めているのです』とあります。

 

能楽の始祖は渡来人の秦河勝であり、八咫烏を構築した源流です。「金春」は、「金の春」であり、金が多く集まる金の支配を感じます。支配層の秘密組織の八咫烏の源流の秦河勝によって、金を利用して大衆を支配する構図が構築されてきたと言えます。正確には人間のエゴと金によって支配の暗闇をつくってきたのです。八咫烏という支配層の背後には闇の宇宙人が存在しており、その宇宙人がアヌンナキだと分かっています。アヌンナキは、シュメールに闇を降ろした最初の闇の宇宙人と捉えています。

 

アヌンナキは、原始キリスト教という隠された松取り(松果体収穫)の闇を持つ宗教をつくりました。《パレスチナ アヌンナキ(3) ~巡礼の旅(389)~》からパレスチナ自治区の都市ヘブロンにある宗教史跡・マクペラの洞穴に光を降ろすと、アヌンナキの出入口だったと分かりました。アヌンナキは地下・地底を棲家として光の地下世界を闇にしてきたのです。ゴビ砂漠に置かれた謎の構造物は、支配層の八咫烏と重たい闇の宇宙人・アヌンナキによる光の地底を闇にする松利権の工作拠点だと見ています。(つづく)