izumokoku


2023
56日、左手薬指に軽い痒みを覚えました。住友不動産から大日本製薬(現・住友ファーマ)に繋がり、覚醒剤「ヒロポン」に行き着いたタイミングでした。一般医薬品として市販されていた覚醒剤「ヒロポン」関連の調査とワーク《戦後約10年間に一般用医薬品で市販された覚醒剤「ヒロポン」と販売元の住友ファーマの前身「大日本製薬」》に記しています。左手薬指に軽い痒みの意味を内観すると、大日本製薬の設立経緯と関連人物についての調査とワークを行う必要があると感じました。

 

住友ファーマのwikiはありますが、大日本製薬のwikiがないので、大日本製薬の設立経緯についてのネット情報を収集していきました。《小野薬品工業公式サイト》には、『明治以降、西洋医学が本格的に導入されるようになり、医薬品の製造技術は飛躍的に進展しました。他の薬種問屋が新しい分野である「製薬」に着手する中、小野市兵衞は、武田長兵衞、田辺五兵衞、塩野義三郎、上村長兵衞とともに、大日本製薬株式会社(現・大日本住友製薬)を設立しました。この会社はそれらの問屋の共同出資により製薬部門を担当しました。

 

それとともに、昔からの改会所の伝統により試験部を設け、官立の衛生試験所と同格の資格で薬品の試験を行いました』と記されています。また、《大日本製薬株式会社の設立および発展経緯の考察》には、大日本製薬株式会社の設立経緯や関係者の有用情報が記載されています。『大日本製薬という名称の企業は歴史に2度登場する。1883(明治16)年にまず半官半民の会社として大日本製薬会社が設立され、次いで1897(明治30)年に大阪の薬業者らが共同で大阪製薬株式会社を設立した。同社が1898(明治31)年に大日本製薬会社を合併した後、社名を大日本製薬株式会社と改称した』

 

『創立五十周年記念式典の項目ではプログラムに沿って読み上げられた式辞、祝辞がそのまま掲載され、自企業の経営陣()と厚生省()、京都帝国大学医学部薬学科()の関係性を強調する構成となっている』『生産による利益のみならず、自国生産によって国内に流通する医薬品の品質管理に言及することで、大日本製薬設立の意義を強調している。・・政府の支援を得た上で、東京および大阪の薬業者の共同設立による会社組織の立ち上げ以外の手段がないという見解のもと、表1に記した人々が有志を募った。

 

1 [設立に際し集った有志]東京:小室信夫、新田忠純、大倉喜八郎、福原有信、島田久兵衛 大阪:久原庄三郎、松本重太郎、大井卜新、浮田桂造』『最も多くの活動に参加しているのは武田長兵衛と田邊五兵衛、次いで塩野義三郎となっている』。大日本製薬会社が半官半民の会社であることが分かります。また、自企業の経営陣()と厚生省()と京都帝国大学医学部薬学科()が深い関係であったのです。覚醒剤「ヒロポン」の製造販売会社「大日本製薬」が政府の支援の下で設立された会社でした。

 

さらに、最も多くの活動に参加しているのは武田長兵衛、田邊五兵衛、塩野義三郎は、現在の日本の大手製薬会社の武田薬品工業、田辺三菱製薬、塩野義製薬の元経営者です。大日本製薬が覚醒剤「ヒロポン」という裏の薬利権の中核組織を担っていたことが推測されます。大日本製薬の設立に際し集った有志の中には、大倉財閥の創設者・大倉喜八郎や資生堂の創業者・福原有信もいます。大倉喜八郎については《GHQ・碌々産業に関係したローゼンベルグと松の供給システムをつくった大倉財閥の創設者・大倉喜八郎》で調査とワークを行っています。

 

資生堂の創業者・福原有信の調査とワークは《海軍病院薬局長の職歴を有し闇の叡智を活用してビジネスを発展させた資生堂創業者の福原有信》に書いています。松本重太郎は、渋沢栄一が設立した東洋紡の設立支援者です。紡績と鉄道に尽力した関西経済界重鎮であり、《森英恵の夫・森賢の実家の松利権を有する繊維会社と推測される江戸時代創業の大手繊維専門商社・モリリン》で調査とワークを行っています。大倉喜八郎、福原有信、松本重太郎は、支配層の松利権に深く関わっている重要人物と言えます。

 

このことから松利権と薬利権は一体であると窺えます。大日本製薬の設立有志の中で、大倉喜八郎、福原有信、松本重太郎の3人を除いた6人をワークの対象としました。小室信夫(1839-1898)は、丹後国与謝郡岩滝村(現・京都府与謝郡与謝野町)出身の貴族院勅選議員、実業家です。京都で倒幕運動などの工作に加わっています。実業界に転じ、東京株式取引所、京都鉄道、奥羽鉄道、阪堺鉄道、小倉製紙所、第八十九国立銀行、第百三十国立銀行、北海道製麻、大阪紡績、東京製薬の設立など様々な会社の立ち上げに関わり重役や社長を歴任しました。

 

新田忠純(1856-1931)は、明治時代の華族、貴族院男爵議員です。大阪陸軍幼年学舎で学んだのちにパリに留学しました。1882(明治15)に外務省公信局御用掛となり、1894(明治27)、父が没したため家督を継ぎ、男爵を襲爵しました。島田久兵衛(1832-1865)は、江戸・日本橋(現・東京都中央区日本橋)出身の実業家です。家業の薬品商・島田商店を継ぎ7代目店主となり、欧米の新薬の輸入販売に当たり、日本の医薬学界に貢献、東京薬種貿易商組合役員に選ばれました。

 

小室信夫(1839-1898)、新田忠純(1856-1931)、島田久兵衛(1832-1865)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「八咫烏」「サンカ」「八咫烏」と伝えられました。久原庄三郎(1840-1904)は、長門国萩(現・山口県萩市)出身の明治期の実業家です。日立製作所、日産自動車、日立造船、日本鉱業創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取り、「政界の黒幕・フィクサー」と呼ばれた久原房之介の父親です。

 

大井卜新(1834-1924)は、紀伊国牟婁郡西山郷平谷村(現・三重県熊野市紀和町平谷)出身の江戸時代の医師、明治、大正期の薬剤師、実業家、政治家です。大坂で蘭学と医学を学び、さらに長崎でオランダ人、ボンベ・ボートエンのもとで蘭医学を学んで蘭学医となります。長崎に9年いたのち、飫肥藩で1年洋医学を教え、慶応元年に大阪で開業します。明治維新後は大学得業生、文部省助教を経て薬剤師となり、1876年に大阪で薬局開業。1909年には渋沢栄一率いるアメリカ実業界視察旅行「渡米実業団」に参加しました。

 

浮田桂造(1846-1927)は、大和国(現・奈良県)出身の明治期の実業家、政治家で、衆議院議員、大阪商業会議所会頭です。久原庄三郎(1840-1904)大井卜新(1834-1924)浮田桂造(1846-1927)の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「八咫烏」「黄色。半島工作員」「DS」と伝えられました。ワークの結果、政府の支援を得た上で、東京および大阪の薬業者の共同設立による会社組織(大日本製薬)立ち上げ有志9人は、大枠では支配層の松工作集団・八咫烏の役割を担っていたと感じます。(つづく)