「コンクリート」と「生コン」の歴史を調べて、気になる対象についてワークを行うことにしました。コンクリート-Wikipediaには、コンクリートの名称の名づけ親の広井勇(ひろいいさみ)の名が載っていました。『現在は英語単語のカタカナ表記である「コンクリート」という表記を用いるのが一般的である。広井勇の発案であるとされる「混凝土」(コン・クリー・ト)という音訳表記も以前は広く用いられ、このまま「コンクリート」と読まれた。この漢字表記は、中国語圏では現在でも最も一般的なコンクリートの名称として用いられている。
コンクリートは、広義の意味では砂や砂利、水などをセメントなどの糊状のもので結合させたものを指す。そのためセメントで結合させたものをセメントコンクリートと呼び、アスファルトで結合させたものをアスファルトコンクリートと呼ぶ。建築資材として一般にコンクリートと呼ばれるものはセメントコンクリートの方である』。wikiによると『廣井勇(1862年-1928年)は、高知県出身の土木工学者。元東京帝国大学教授。札幌農学校(現在の北海道大学)卒業。「港湾工学の父」と呼ばれた』とあります。
廣井勇は札幌農学校を卒業した後、キリスト教に改宗しており、八咫烏の松工作員だったと感じます。「港湾工学の父」としての廣井勇は、日本の主要港の整備をコンクリートを使って行いました。遺体の松取り(松果体収穫)後の廃棄物を混ぜたコンクリートと使うことで、港湾が土地が闇に成ります。日本列島の海岸沿いの港を松成分混入のコンクリートで闇にしていったのです。過去のヒプノセラピーで「端を固める」と伝えられています。陸地の内部を闇で固めるためには、まず端の海岸線を闇にして固めるのです。
日本列島の海岸線にある港湾をコンクリートで固めて闇にしてきました。なぜ海岸線なのかを考えると、海岸線に地下の入口があるからだと思います。三陸海岸にはリアス式海岸が多くあり、地下に繋がる洞窟が多数あります。この洞窟の入口を闇のコンクリートで固めることで闇にして光が出なくなり、陸地の中の地下の洞窟も闇になるのです。昔は、松尾芭蕉のような歌人や伊能忠敬のような測量家が歩いて、石碑に刻んだ呪文や結界などの術の闇で海岸線を封印していました。近代は、コンクリートを流して固めることで闇にして封じてきました。
廣井勇の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。「生コン」の歴史については、株式会社サクラ公式サイトの《草創期の生コン》に有用情報が掲載されています。『大正12年(1923年)の関東大震災直後に、復興局道路課によってミキシングプラントが設置され、下谷、浅草方面の道路工事にダンプカーで輸送された記録が残っています。これが日本の生コンクリート工場の先駆けと云われていますが、コンクリートの販売ではなく現場プラントに近いものでした。
産業としての発祥は、磐城セメント㈱(現、住友大阪セメント)が全額出資で設立した、東京コンクリート工業㈱が東京都墨田区押上町7番地の東武鉄道業平橋駅構内に昭和24年11月、業平橋工場を建設したことに始ります。小野田セメント製造の元社長河内通祐(元東京スミセ生コン社長河内三郎の父)から磐城セメント㈱斉藤次郎社長に生コン会社設立の構想が持ち込まれたのは昭和23年7月頃である。社長就任間もない斉藤社長は、生コンの将来性を期待してこれに応じ、昭和13(1948)年12月、資本金300万円の東京コンクリート工業㈱が設立されました。
河内通祐が社長に就任、工場建設に着手することになりました。※画像:昭和24年(1949年)操業当時の業平橋工場 生コンの最初の出荷は地下鉄銀座線・三越前の出入口の補修工事だったといわれている』。地下鉄銀座線の工事が最初の生コンが使用された実績のようです。地下鉄工事でコンクリートを利用することで、地下・地底を闇にしてきたと見ています。引用サイトに出て来た「住友大阪セメント(旧磐城セメント㈱)」に着目しました。wikiには、『住友大阪セメント株式会社は、日本のセメントメーカーである。
日経平均株価の構成銘柄の一つ。セメント販売は太平洋セメント、宇部三菱セメントに次いで国内3位である。前身の住友セメントが住友グループ、大阪セメントが三和グループに属していたが、現在はこれら二社の合併により住友グループに所属する。住友グループ広報委員会及び白水会に属する企業である』とあります。住友大阪セメント(旧磐城セメント㈱)の創業者は、3代岩崎清七です。wikiによると『3代岩崎清七(1865年-1946年)は、下野国都賀郡藤岡村(現・栃木県栃木市藤岡町藤岡)出身の明治期の実業家。磐城セメント(住友大阪セメント)を創業した。
[経歴]家は代々醤油醸造と米穀肥料商を生業とする。小学校卒業後、郷里の鴎村学舎で漢学を修め、1880年東京に出て岡千刃の塾で漢学を修める。この塾で片山潜と知り合い、生涯親交した。1882年より片山のいた攻玉社で数学を専修し、1883年9月慶應義塾に入学。1884年2月慶應義塾の斡旋で渡米し、1885年6月コーネル大学で政治経済を学ぶが性に合わず、ニューヨーク領事の高橋新吉から実業家に役に立つ法科を勧められ、1887年6月、イェール大学で法律学を専修し学位を得て1889年に帰朝する。
家業の米穀商、醤油醸造業を継ぎ、陸軍省と提携。八茎鉱山の社長・広瀬金七の協力を得て磐城セメント(後の住友大阪セメント)を設立。日清紡績、日本製粉などの経営に関わり、東京瓦斯社長、全国実業協会会長、大日本産業報国会審議員等を歴任した。1919年日本製粉社長』と記されています。住友大阪セメントの創業者・3代岩崎清七の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。3代岩崎清七の家は、家業が醤油醸造業なので、家系を引継ぐ松工作員だったと感じます。住友大阪セメントの取締役会長は関根福一(せきねぐくいち)です。
wikiには、『関根福一(1951年-)は、栃木県栃木市出身の実業家。住友大阪セメント代表取締役社長を経て、同社取締役会長。元セメント協会会長。[人物・経歴]1975年学習院大学法学部卒業。空手部出身。大学卒業後住友セメント(現住友大阪セメント)入社。人事部長、企画部長を経て、2004年取締役管理部長に昇格。2006年取締役常務執行役員。2010年から住友大阪セメント代表取締役社長を務め、東北大震災からの復興などでセメント需要が高まる中、生産力の増強などにあたった。2014年セメント協会会長。2018年セメント協会会長。2021年住友大阪セメント取締役会長。
2023年ハウス食品グループ本社取締役』と記されています。住友大阪セメントの取締役会長・関根福一(1951年-)、代表取締役 取締役社長・諸橋央典(1959年-)、本社所在地(東京都港区東新橋1丁目9-2 汐留住友ビル20階)に闇の解除・統合を意図して各々に光を降ろすと「現場」「DS」「いいです」と伝えられました。2021年-2022年セメント業界売上高ランキングでは、1位太平洋セメント、2位住友大阪セメント、3位宇部三菱セメントの順になっており、宇部三菱セメントについても追うことにしました。(つづく)