「長野立てこもり事件」の容疑者・青木政憲が所属していた「猟友会」のネット情報では「猟友会を仕切っているのは統一教会だといわれています」とあり、「猟友会」の調査とワークを行うことにしました。猟友会の情報はwikiに記載されています。『猟友会とは、特定の条件を満たした狩猟者団体の日本での統一名称。かつて日本統治下にあった韓国でも各地の狩猟団体に「獵友會」の名が残る。[概要]文献によれば、日本で最初に猟友会と名乗った団体は動物学者飯島魁らを中心に旧狩猟法制定3年前の1892年に結成されている。
会頭を務めたのは貴族院議員の大村純雄。その後、軍や警察の下部組織として名称が用いられるようになった。多くの場合、警察署長が猟友会長を兼任した。帝国在郷軍人會が、毛皮を安定供給するために地元の狩猟者をとりまとめたことが始まりとされる。第二次大戦後は民間団体のみになり、大日本聯合獵友會をルーツとする大日本猟友会が都道府県猟友会とその支部や地区猟友会を傘下に置いている。都道府県猟友会の傘下組織の名称は「△△猟友会」あるいは「〇〇県猟友会△△支部」となる。
基本的には地区猟友会に入会することで自動的に都道府県猟友会と大日本猟友会の構成員となるシステムである。各年度でばらつきはあるものの、2000年代までは狩猟免許所持者の6割から8割が猟友会会員となっていたが、2010年代に入り5割程度に落ち込んだ。戦前の猟友会残党が射撃協会を結成した秋田県のように、戦後の射撃競技の発展に繋がった側面がある。また、日本統治下の韓国では一部の猟友会が抗日運動に加担した例もある』。猟友会は、「マタギ」とも深く関係していると感じます。
《マタギの探求から分かった複数の工作員から成る平賀源内の正体》にありますが、マタギの人は、山で熊などの野生動物を狩猟するので、感覚的には山の民である「サンカ」の人だと捉えています。サンカの人たちの起源は、渡来人の支配下で松果体収穫をしていた先住民の人たちのことです。武器は、剣などの刃物でしたが、鉄砲が普及した後は、主に猟銃による動物の松取りを行ってきました。渡来人の配下で松取りの現場仕事をしてきた先住民がサンカであり、マタギに繋がると見ています。
日本では、中国大陸・朝鮮半島からの渡来人が支配層を形成して、表裏の支配を司る「八咫烏」という松利権集団を構築してきました。八咫烏の胴元工作組織として中国派の創価学会と朝鮮派の統一教会の2つがありましたが、今は、統一教会が創価学会を乗っ取った形になっています。宗教団体は、松・薬・人身売買などの裏の反社仕事の隠れ蓑として用いられてきました。現在では、統一教会は支配層・八咫烏の元締めの工作組織と見ることができます。八咫烏の源流が子供の松取りなので、今は、八咫烏=統一教会の構図になります。
猟友会-wikiの歴史に出てくる要人をワークの対象にしました。1892年に設立した日本最初の猟友会の創設者は飯島魁(いいじまいさお・動物学者)、会頭は大村純雄(貴族院議員)です。飯島魁についてwikiには『飯島魁(1861年-1921年)は明治・大正期の動物学者、魚類学者。海綿の研究と、鳥・寄生虫に関する研究が多く、日本動物学の前進に大きな役割を果たした。日本鳥学会を創設し、1912年から1921年まで初代会長に就任。また、豪快な性格で、長さ10mに達するミゾサナダムシの幼虫を自ら飲んで、ミゾサナダムシの感染経路を明らかにしたエピソードでも知られる』とあります。
日本最初の「猟友会」の創設者・飯島魁、会頭・大村純雄の御魂が上がるよう意図して各々に光を降ろすと「寄生虫の工作員」「八咫烏」と伝えられました。1929年9月に設立された各地の猟友会を管轄する組織・「大日本聯合獵友會」の会長は鷹司信輔(たかつかさのぶすけ・貴族院議員)です。wikiには、『鷹司信輔(1889年-1959年)は東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身の公爵、貴族院議員、明治神宮宮司、鳥類学者。日本鳥学会会長。「鳥の公爵」「小鳥公爵」と呼ばれた』と記されています。
「大日本聯合獵友會」の会長・鷹司信輔の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「工作員」と伝えられました。1939年8月、大日本聯合獵友會が社団法人となり大日本獵友會に改名されます。大日本獵友會の初代会長が光永星郎(みつながほしお・貴族院議員・電通創業者)です。wikiには、『光永星郎(1866年-1945年)は、熊本県八代郡野津村(現・熊本県氷川町)出身の実業家。日本広告・日本電報通信社(後の電通)創業者。貴族院勅選議員』とあります。1946年の大日本獵友會の会長が徳川義親(尾張徳川家当主)です。
wikiによると『徳川義親(1886年-1976年)は、東京府小石川区(現・東京都文京区)の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた』と記されています。《金の闇に染められ純粋さを失ったアイヌ民族》には、北海道八雲町の徳川農場主の徳川義親について書いています。熊やアイヌの松取りを行っていたと見ています。
1939年設立の大日本獵友會の初代会長・光永星郎、1946年の会長・徳川義親の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「イルミナティ」「半島」と伝えられました。満鉄の闇を引継ぐ米国・朝鮮系(亀派)八咫烏の工作組織である電通の創業者・光永星郎や尾張徳川家当主・徳川義親がトップに就いたことから、支配層にとって大日本獵友會(猟友会)がいかに重要なのかが分かります。現在の猟友会の全国組織の正式名は「一般社団法人大日本猟友会」で、会長は佐々木洋平(元衆議院議員)です。
wikiによると『佐々木洋平(1942年-)は、岩手県西磐井郡花泉町(現・岩手県一関市)出身の元政治家。衆議院議員(1期)、岩手県議会議員を歴任。大日本猟友会会長。[来歴]岩手県立一関第一高等学校、東京農業大学を卒業後、鹿島建設が出資する牧場に就職。間もなく事業撤退により解散。解散後は一時盛岡市役所に勤務した。1979年に岩手県議会議員に当選。当選後は自由民主党に入り、県議を4期務める。1993年自民党衆議院議員小沢一郎の離党に伴い自民党を離党し新生党系会派「研政会」を結成。
翌1994年に新生党に入った。同年暮れ、新進党が結党され、同党に入党した。この間岩手県猟友会会長に就任し、現在に至る。1996年の衆議院議員選挙に岩手3区から、新進党公認で立候補し自民党の志賀節を破り、当選』とあります。佐々木洋平は、実質的に小沢一郎の子分だったと感じます。大日本猟友会の会長・佐々木洋平と本部所在地(東京都千代田区九段北)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「八咫烏」「いいです」と伝えられました。支配層・八咫烏と統一教会と繋がる松利権団体の猟友会の闇の役割が終わりになることを願っています。(おわり)