Nagano_Holy_Saviour_Church


アメリカ側全権マシュー・ペリーと日本側全権の林復斎が交渉して締結した日米和親条約ですが、日米和親条約を修補する目的として下田の地で結ばれたのが「日米追加条約(下田条約)」です。wikiには、『日米追加条約は、1857617(安政4526)、初代アメリカ合衆国総領事であるタウンゼント・ハリスと下田奉行(井上信濃守・中村出羽守)との間で結ばれた全9か条の条約。先にマシュー・ペリーが結んだ日米和親条約を修補する目的で結ばれた。別名、下田協定あるいは下田協約。

 

日本側の延引策に加えて、特に居住権、旅行権、為替をめぐって議論白熱し、交渉は10か月にも及んだ』と記されています。米国側の締結者のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris1804-1878)は、アメリカ合衆国の外交官、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、民主党員です。江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。1804103日、ニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(後のハドソン・フォールズ)に父ジョナサン・ハリスの六男として生まれました。

 

家系はウェールズ系。苦学の末に貿易業を開始しました。米国聖公会の熱心な信徒であります。日本側の締結者の井上清直(1809-1868)は、幕末の江戸幕府御家人(後に旗本)。内藤歳由の三男で、家禄現米80石の幕府御家人・井上新右衛門の養子です。天保13(1842)に寺社奉行吟味役、弘化4(1847)に勘定組頭格を歴任します。安政2(1855)、老中・阿部正弘の信任を得て下田奉行に就任。翌年にアメリカ総領事・ハリスが下田に来航すると応接を担当し、ハリスの将軍・徳川家定への謁見や日米修好通商条約討議に奔走します。

 

日米追加条約(下田条約)の米国側締結者のタウンゼント・ハリスと日本側締結者の井上清直の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」「工作員」と伝えられました。日米和親条約(神奈川条約)の米国側締結者のマシュー・ペリーと日米追加条約(下田条約)の米国側締結者のタウンゼント・ハリスの共通点が「聖公会信徒」です。聖公会(せいこうかい)wikiには、『聖公会、国際的な名称としては アングリカン・チャーチ(Anglican Church)は、イングランド国教会(Church of England)の系統に属するキリスト教の教派。

 

聖公会は自らを、西方教会におけるカトリック教会とプロテスタントの中間として位置づけ、そのことから「中道(Via Media)」の教会であると自認している』とあります。聖公会は、カトリックとプロテスタントの中間にあり、2つのキリスト教の教派を巧妙に動かせる「同和派」としての立ち位置にあるのです。《黄色と青色から成る同和の闇のエネルギー》には、1901(明治34)に築地病院の建物を米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取ってつくった「聖路加国際病院」について記されています。

 

聖路加国際病院のシンボルマークは、黄色と青色が基調になっており、同和のエネルギーを示唆しています。ワークでは「米国派にみせかけた同和派の拠点」と伝えられています。支配層・八咫烏の同和派の代表的拠点が、戦時中に米軍の空襲を免れた「聖路加国際病院」です。八咫烏の鶴派と亀派の両方を巧みに動かしていたのが「同和派」なのです。江戸時代の鎖国政策を終わらせる象徴とする条約が日本とロシアの間で結ばれた「日露和親条約」です。「日露和親条約」の情報はwikiに記載されています。

 

『日露和親条約は、安政元年1221(185527)に伊豆の下田(現・静岡県下田市)長楽寺において、日本とロシア帝国の間で締結された条約。日本(江戸幕府)側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。本条約によって、択捉島と得撫島の間に国境線が引かれた。樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。この条約は1895(明治28)に締結された日露通商航海条約によって領事裁判権をはじめ全て無効となった。

 

条約の正式名称は、日本国魯西亜国通好条約(にっぽんこくろしあこくつうこうじょうやく)である。日露通好条約、下田条約、日魯通好条約とも呼ばれ、また条約締結当時の日本では日魯和親条約と表記していた』。ロシア側全権プチャーチン(提督)についてwikiには、『エフィーミー(エフィーム)・ヴァシーリエヴィチ・プチャーチン(1803-1883)は、ロシア帝国(ロマノフ朝)の海軍軍人、政治家、教育大臣。サンクトペテルブルク出身。先祖の出自はノヴゴロド貴族の家系である。

 

1822年に海軍士官学校を卒業し、ミハイル・ラザレフの指揮下で3年間世界周航に従事した。1853年に日本の長崎に来航。その後1855年には、日本と日露和親条約を締結するなど、ロシア帝国の極東における外交で活躍した』と記されています。ロシア提督のプチャーチンのワークは《静岡 日本の暗闇の基盤となる八咫烏の松の仕組と徳川家の金庫番となる静岡銀行 ~巡礼の旅(744)~》で行っており「工作員」と伝えられました。日露和親条約の日本(江戸幕府)側全権は、筒井政憲(つついまさのんり・大目付格)と川路聖謨(かわじとしあきら・勘定奉行)です。

 

筒井政憲についてwikiには、『筒井政憲(1778-1859)は、江戸時代後期の旗本。通称は右馬助、佐次右衛門。官位は伊賀守、和泉守、紀伊守、肥前守。目付、長崎奉行、南町奉行、大目付を歴任した。旗本久世三四郎広景の次男として誕生。戦国大名の末裔である旗本筒井家(1000)を継いだ。柴野栗山に学問を学び、昌平坂学問所で頭角を顕わす。目付、長崎奉行を経て、文政4(1821)より南町奉行を20年間務めた』とあります。川路聖謨についてwikiには、『川路聖謨(1801-1868)は、日本の武士(旗本)

 

豊後日田代官所の役人の息子に生まれ、御家人出身ながら勘定吟味役、佐渡奉行、小普請奉行、大坂町奉行、勘定奉行などの要職を歴任した。和歌にも造詣が深く、「島根乃言能葉」などの歌集も遺している。享和元年(1801)425日、豊後国日田(現・大分県日田市)に、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。幼名は弥吉。母は、日田代官所手付の高橋誠種の娘』と記されています。日露和親条約の日本(江戸幕府)側全権は筒井政憲と川路聖謨の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」「八咫烏」と伝えられました。

 

ワークの結果から日米和親条約と日露和親条約の締結者の違いが分かります。全体的には、日米和親条約の締結者は「DS」の工作員で、日露和親条約の締結者は「八咫烏」の工作員です。支配層のDSと八咫烏の違いは、エネルギー的にDSがエゴの闇で、八咫烏が純粋の闇となります。また、位置づけは、DSはトカゲ・レプタリアンの宇宙人の集団であり、八咫烏はアヌンナキの集団です。闇の階層的には術師のアヌンナキの配下にトカゲ・レプタリアンが置かれています。ただし、アヌンナキのエゴが最大で遠隔操作の術に長けている金春アヌンナキが存在しており、エゴを満たして金儲けに走る八咫烏も存在します。(つづく)