広島世界平和記念聖堂02


ペドロ・アルペが19423月から院長を務めて194586日に被爆した広島のイエズス会修道院「長束修練院(ながつかしゅうれいいん)」に注目しました。当時の長束修練院は、現在は「イエズス会聖ヨハネ修道院」となっています。イエズス会聖ヨハネ修道院の情報はwikiに記されています。『西日本霊性センター イエズス会聖ヨハネ修道院(黙想)は、広島県広島市安佐南区長束にあるカトリック教会イエズス会の修道院。1938年イエズス会長束修練院(ノビシャド)として開院、2005年から現在の修道院となる。全国に4箇所あるイエズス会霊性センターの一つ。

 

長束黙想の家、長束修道院で知られる。1945年広島市への原子爆弾投下時では爆心地から約4.5kmに位置しイエズス会の救護拠点となった。広島にあるキリスト教関連施設としては唯一の被爆建物。[沿革・経緯]イエズス会は1908年から日本に再渡航し上智大学の運営など教育にも尽力した。カトリック広島司教区は1923(大正12)大阪教区から中国地方の5県が広島使徒座代理区として独立した形で始まる。管轄はイエズス会ドイツ管区に委託されそこから宣教師が派遣され、代理区長館は当初岡山に置かれた。

 

1925(大正14)広島市草津にカトリックの学校を作る計画があったが、呉海軍工廠があったため外国人の関わる学校の建設許可は降りなかったという。1929(昭和4)フーゴ・ラッサール神父が来日する。上智の学生にドイツ語を教えることよりも社会的なキリスト教的意識を教えることの方に興味があったラッサールは、東京の貧民街であった三河島に上智カトリック・セツルメントを設立し下町を拠点に活動生活した。1935(昭和10)ラッサールはイエズス会日本管区上長に任命されるも、上智大学内SJハウスを拠点に活動しなければならなくなった。

 

そこでラッサールは東京のど真ん中より広島での活動を選び、日本管区本部を広島に移し幟町天主公教会を拠点とした。広島にイエズス会の修練院が建てられたのはこうした背景にある。1938(昭和13)ラッサールによって当時安佐郡長束村に長束修練院が建てられた。同1938年上智大学構内の修学院と哲学院が広島市観音に移される。1939(昭和14)広島代理区長館も広島に移される。1942年観音の施設が売却され長束修練院に統合、あるいは哲学院はまた東京に戻っている。[被爆]太平洋戦争中、連合国出身者は敵性外国人として抑留された。

 

ただ外国人でも同盟国のドイツ人や中立国のスペイン人あるいは白系ロシア人などは免れていた。イエズス会としては、19451月他の都市は空襲による被害がある中で広島だけそれがないことから、東京のイエズス会神学部・哲学院が長束修練院に疎開していた。同年81日、長束修練院から一部の神父が帝釈峡へ隔離されている。そして同年86日被爆することになる。以下その時点で長束にいたと判っている神父・修道士のうち外国人のみ列挙する。院長・修練長 ペドロ・アルペ(スペイン) 副院長 パウロ・ネーベル(Paul Nebel・ドイツ領(現フランス、のち帰化し日本名岡崎裕次郎)) 

 

司祭 ヨハネス・ジーメス : ドイツ フリードリヒ・タッペ(Friedrich Tappe・ドイツ) ラウレンツ・クリヤー(Laurenz Kruer・ドイツ) ハンス・シュトルテ(Johannes Stolte・ドイツ) ロレンツ・ラウレス(Lorenz Laures・ドイツ) ヘルムート・エルリンハーゲン(Helmut Erlinghagen・ドイツ) クラウス・ルーメル(ドイツ) 修道士 陳ソンマン(日本姓陳原・朝鮮(韓国で死去)) 金太寛(日本姓金城・朝鮮(韓国で死去))。イエズス会としては更に、幟町教会にラッサール(ドイツ)、クラインゾルゲ(ドイツ)、チースリク(ドイツ)、シッファー(ドイツ)の神父4人。

 

そして、楠木町の援助修道会三篠修道院にコップ神父がおり、あわせて外国人16人が被爆したことになる』。長束修練院で被爆したイエスズ会関係者は、神父のペドロ・アルペを含めて11人であり、ドイツ人と朝鮮・韓国人が殆どです。生贄の源流のドルイドの闇と八咫烏の胴元工作組織の統一教会の隠す闇がミックスされている感じです。広島全体の被曝したイエスズ会関係者の外国人は16人です。広島の原爆投下工作に合わせて被曝という弱者・被害者の隠れ蓑を纏うために計画していたのだと感じます。サイト情報によると、西日本霊性センター イエズス会聖ヨハネ修道院センター長は、住田省悟(神父)です。

 

イエズス会聖ヨハネ修道院センターのセンター長・住田省悟(神父)所在地(広島県広島市安佐南区長束西2丁目1-36)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ペド」「いいです」と伝えられました。イエズス会には、まだ隠された闇があると感じます。次に、被曝したフーゴ・ラッサールが司祭だったカトリック幟町教会の聖堂である「世界平和記念聖堂」に目を向けました。「世界平和記念聖堂」は、フーゴ・ラッサールが設立を発案して建設することに尽力しました。世界平和記念聖堂の情報はwikiに記載されています。『世界平和記念聖堂は、広島県広島市中区にある、キリスト教(カトリック)の聖堂。

 

カトリック幟町(のぼりちょう)教会の聖堂であり、カトリック広島司教区の司教座聖堂となっている。広島世界平和記念聖堂とも呼ばれる。建築家村野藤吾設計によるRC造、三廊式バシリカの教会堂で、1950(昭和25)86日に着工され、1954(昭和29)86日に竣工した。2006(平成18)75日には重要文化財に指定されている。[概要]歴史的に初めて広島にキリスト教の教会が建てられたのは、まだ毛利氏が広島に本拠を構えていた1599年の頃だとされている。その後の長い禁教の時代を経て明治以降に布教が再開されるようになると、1882(明治15)に幟町に教会が設けられた。

 

第二次世界大戦の終りまで広島カトリック教会は「幟町天主公教会」と呼ばれ、この地にあったのは明治時代に建てられた古い和風(日本様式)の教会堂であった。その教会が1945(昭和20)86日の原子爆弾投下によって倒壊・焼失してしまうと、その時直接被爆したドイツ人主任司祭フーゴ・ラッサールは、この地に原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を祈念するための聖堂をあらたに建設することを思い立った。このラッサール神父の発願は当時のローマ教皇ピオ12世の支持を得たあと、カトリック信者をはじめとする真に恒久平和を願う人々の共感をも呼び起こした。

 

それが世界各地から届けられる多大な浄財や寄贈品の形となって、世界平和記念聖堂は建設された』。支配層は、大衆を騙して暗闇に入れるる原爆工作をより効果的・永続的にするために目に見えた証となる原爆ドームや世界平和記念聖堂のランドマークを置いたのです。世界平和記念聖堂の設計者は、村野藤吾です。村野藤吾(1891-1984)は、佐賀県東松浦郡満島村(現・唐津市)出身の建築家です。日本建築家協会会長、イギリス王立建築学会名誉会員、アメリカ建築家協会名誉会員を歴任しました。建築批評界では丹下健三とよく比較されました。

 

村野藤吾の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「DS」と伝えられました。村野藤吾は、地下施設を含めて支配層の重要拠点の建築物を設計する役割だったと感じます。公式サイトによると、カトリック幟町教会の主任司祭は、荻喜代治(神父・教区司祭)です。カトリック幟町教会の主任司祭・荻喜代治と世界平和記念聖堂を含む所在地(広島県広島市中区幟町4-29)に闇の解除・統合を意図して光を降ろすと「ペド」「いいです」と伝えられました。嘘・工作の闇を終わりにするには人々が真実に気づく必要があります。支配層が成した原爆工作の闇に光が入ることを願うばかりです。(つづく)