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日本の繊維産業の歴史を調べて行くと「富岡製糸場」が気になりました。富岡製糸場は、群馬県富岡に設立された日本初の本格的な生糸の器械製糸工場で、世界遺産に登録されています。

 

日本の近代化だけでなく、絹産業の技術革新・交流などにも大きく貢献した工場です。1872年(明治5年)に開業した富岡製糸場は、1939年に片倉富岡製糸所の名前に変わっています。

 

当時、日本最大級の繊維企業であった片倉組(片倉財閥)に経営権が移りました。片倉財閥は、1873年(明治6年)、片倉市助が長野県諏訪郡川岸村で座繰り製糸を開始したのがはじまりです。

 

「シルクエンペラー」と呼ばれた二代目片倉兼太郎(片倉佐一)の手により、製糸業から発展します。1895年(明治28年)に片倉組を設立し、東京京橋に進出しました。

 

以降、業容を拡大し、一財閥を形成しましたが、太平洋戦争後の財閥解体で解散となります。片倉財閥の片倉家は、初代から3代目まで兼太郎の名前が引継がれています。

 

初代・片倉兼太郎のウィキペディアには、「1903年(明治36年)以降、北海道および朝鮮半島に進出、農場や山林を経営した」と記されており、隠された闇だと感じます。

 

この時期の朝鮮半島の国は、李氏朝鮮です。1895年の乙未事変(いつびじへん)後であり、日本が阿片政策などの工作活動で、配下に置いていたと感じます。

 

北海道では、明治6年に開拓のための屯田兵制度ができました。明治政府は、北海道で養蚕と大麻栽培の産業を奨励しており、片倉財閥も関わっていたと感じます。

 

片倉という姓は、北海道開拓の調査で記憶に残っていました。戊辰戦争で敗れた仙台藩白石城城主・片倉小十郎(片倉氏)の家臣が、札幌市白石区に移住したのです。

 

1871年(明治4年)に最月寒(もつきさっぷ)と呼ばれていた現在の白石中央付近に入植しました。1898年(明治31年)、片倉氏は、男爵として華族に列したとされます。


江戸時代の代々の当主は初代片倉景綱にならって片倉小十郎を名乗っていたといいます。片倉財閥の片倉家と北海道開拓の片倉氏は、共に出身地が信濃国(長野県)であり、裏で繋がっていた関係だった感じます。(つづく)