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函館に関係するキリスト教のアイヌ伝道活動をした宣教師の1人としては、チャールズ・ネトルシップがいます。1889年(明治22年)、英国聖公会所属の宣教師としてニュージーランドから来日します。

 

当時、英国聖公会が北海道のアイヌ教育に非常に力を入れていました。1892年(明治25年)、ジョン・バチュラーの援助により函館・元町にアイヌ民族の学校を設けました。

 

翌年、谷地頭山腹に校舎を新築し、ネトルシップは校長となります。キリスト教の医療伝道をネット検索をしていくと《英国人冒険家イザベラ・バードの見た明治期の日本》に行き着きました。

 

1878年(明治11年)、英国人の冒険家、紀行作家のイザベラ・バードが東京から日光、新潟を経て、北日本各地を巡りながら北海道へと至る旅をして、旅行記(完訳 日本奥地紀行)を残しています。

 

イザベラ・バードが新潟に立ち寄った目的は、医療伝道活動について学び知ることだったといいます。彼女が東京以北の日本を旅したことが興味深く思いました。

 

東北、北海道の純粋な土地を封じる意図が垣間見え、明らかに工作員だと感じました。イザベラ・バードが接触した宣教師には、聖公会所属以外に「エディンバラ医療宣教会」がありました。

 

1841年に米国の宣教医のP・パーカースコットランドの首都エディンバラを訪問した際、アバクロンビー医師に医療伝道の急務を訴え、アバクロンビーが海外の医療伝道に関心を持つ人々のキリスト教団体に働きかけました。


その後「エディンバラ医療宣教会」が設立され、アバンクロンビーが会長になりました。設立以来、インド、中国、アフリカトルコシリアエジプトローマ等に宣教師を派遣し、1885年までに170名を世界各地に派遣したとされます。

 

米英中心のキリスト教団が医療伝道を通じて、医療を世界に広げた歴史が分かります。チャールズ・ネトルシップとイザベラ・バードに光を降ろすと「プレアデスの闇」と「スパイ」と伝えられました。

 

さらに、日本初の医療伝道でネット検索すると「ジェームス・カーティス・ヘボン」がヒットしました。ヘボン(1815年-1911年)は、米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師です。

 

ヘボン式ローマ字の考案者として知られており、幕末に訪日し、横浜で医療活動を行いました。宣教師デュアン・シモンズと共に、横浜の近代医学の基礎を築いたといわれます。

 

東京明治学院を創設し、初代総理に就任しており、日本の教育にも貢献しました。ヘボンとシモンズの御魂が上がるよう光を降ろすとヘボンについては「文鎮のように重たい」と伝えられました。

 

キリスト教による日本での医療伝道は、米国派の聖公会が中心ですが、教派を超えて行われて来たと感じます。裏インドの闇の役割としての軍産複合体がベースの米国は、キリスト教が土台となっていたことが分かります。(つづく)