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Meiji Seika ファルマHPの会社沿革には、「梅澤濱夫」が記されていました。明治製菓は、梅澤濱夫の研究に着目し、協力と研究開発を行って、1958年にカナマイシン明治を発売しました。

 
梅澤濱夫(1914年-1986年)は、福井県小浜市生まれの日本医学者、細菌学者、文化勲章受章者ですペニシリンの国産化に尽力し、1956年、国産初の抗生物質カナマイシンを発見、精製しました。


カナマイシンは、ストレプトマイシンの効きにくい耐性菌にも効果のある抗生物質として世界的に用いられました。当時日本からの輸出薬のトップになった薬剤であり、現在でも「抗結核薬」として広く使用されています。

 
「結核」は、昭和20年代まで、日本人の死亡原因の第1位であり、その高い死亡率や感染力のために「不治の病」とも呼ばれていました。高杉晋作、木戸孝允、正岡子規、石川啄木など、多くの著名人がこの結核で亡くなっています。


しかし、抗結核薬の発明により戦後結核の流行は衰退しています。どのような経緯でペニシリンやカナマイシンなどの抗生物質の製品化を明治製菓が手掛けたのかが疑問でした。

 
カナマイシンの製品化に至る経緯が《化学療法の黎明期》に書かれていました。1946年、米国GHQによりTexas大学のFoster(フォスター)が来日し、11月13日に日比谷公会堂でペニシリンの製造に関するノウハウの開示をしました。

 
梅澤濱夫は、Fosterから、何社かの工場の視察後に、明治製菓の顧問になるように言われました。この年に日本ペニシリン協会が設立され、10月末に厚生大臣からの製造許可を取得し、ペニシリンの製造が始まりました。

 
わが国における抗生物質探索の道標》には、「GHQ(連合軍総司令部)の命令で、井深軍医学校長と梅澤浜夫博士の2人が和製ペニシリンとともにペニシリン研究の業績を提出した」


「産官学連繋のプロジェクト体制によって始まったペニシリン生産研究は、戦後のGHQの政策に基づいて招聘したフォスター博士による米国の最先端科学情報の開示と技術指導や生産菌株提供によって飛躍的に高まった」と記されています。

 
軍産複合体の米国によって、日本におけるペニシリンやカナマイシンなどの抗結核薬の製造販売がスタートしたことが分かります。梅澤濱夫の御魂が上がるよう意図して光を降ろしました。

 
「戦争。戦争のためのもの」と伴侶が伝えて来ました。医療や看護は、戦争から生まれました。戦争のための生物兵器と治療のための薬剤である抗生物質に繋がっていると思います。

 
1937(昭和12)年にロックフェラー財団によって日本に初めての保健所が置かれ、保健所網が創られました。明治製菓による抗結核薬の製品販売は、戦後の日本における、米国による医療の闇の仕組の起点となったと感じます。(つづく)