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ネットゲリラの記事《インパール安倍》を読んで、インパール作戦の司令官・牟田口廉也中将の挙動が、安倍晋三首相に非常に似ていると思いました。引用の元記事は、週刊文春の《「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に》です。

 

インパール作戦とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944(昭和19)3月に帝国陸軍による開始し、7月初旬まで継続された、日中戦線における英・米・ソの中華民国への援助ルートである援蒋ルートの遮断を戦略目的として、英領インド帝国北東部の都市・インパール攻略を目指した作戦のことです。

 

作戦に参加した殆どの日本兵が死亡した(死亡者3万人、傷病者4万人)ため、「史上最悪の作戦」と言われています。当初より軍内部でも慎重な意見があったものの、牟田口廉也中将の強硬な主張により作戦は決行されました。

 

物資の配給や整備、兵員の展開や衛生、施設の構築や維持などの軍隊の後方、支援活動である兵站(へいたん)を無視し精神論を重視した杜撰な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫したために、「無謀な作戦」の代名詞として、現在でも、しばしば引用されます。

 

牟田口廉也中将は、生きるか死ぬか命がけの戦場において、部下の兵士を最前線に進める指令を出す一方で、自分は一番涼しい場所に本部を構えて居座り、汗をかかないどころか、毎夜料亭で酒を飲み、宴会気分で芸者遊びをしていたといいます。

 

安倍晋三首相は、自然災害や新型コロナの非常時に、仲間と宴会や会食をして批判を浴びました。部下や国民のことではなく、自分の都合や立場を最優先し、際立った利己主義な点が重なります。

 

牟田口廉也中将は、インパール作戦失敗の後、第15軍司令官を罷免されて参謀本部附となり、予備役に編入されます。戦後、英国軍がシンガポールで開いた戦犯裁判でBC級戦犯の1人として裁かれましたが、嫌疑不十分で釈放され、帰国後は東京都府中市で余生を過ごしました。

 

ウィキペディアを読むと、さらに驚かされました。死去までの4年間はインパール作戦失敗の責任を問われると、戦時中と同様に「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と頑なに自説を主張し、多くの機会で繰り返されたといいます。

 

極めつけは、「自分の葬儀においても、遺言により、自説を記したパンフレットを参列者に対して配布させた」と記載されています。最期まで、自分を省みることをしないで、傲慢なままに、誰かのせい何かのせいという責任転嫁して来たのです。

 

ここまで来ると、人間の資質の問題というよりも狂人的なものさえ感じます。純粋さを失ってエゴが極限的に増大した状態であり、日本を深い暗闇にするために、何か大きな意志が働いていたと思わざるを得ません。(つづく)