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聖徳太子については、過去のヒプノセラピー《聖徳太子という英雄を作って広めた》で
架空の人物だと分かっていました。「聖徳太子を仲間と一緒に考えた。聖徳太子という英雄を作ることで民衆を言うことをきかす。民衆の怒りを抑えるための信仰を広める」と伝えられていました。


民衆を支配して、仏教を広げるために、神のような英雄を創作したのです。実際に、「聖徳太子信仰」があり、今でも職人の間では石碑を建てたりして信仰されています。歴史学者・大山誠一氏は、「聖徳太子の実像と幻像」の著作を通じて「聖徳太子虚構説」をとなえています。

 

「信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等、長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする」とウィキペディアに記載されています。

 

藤原不比等を中心にして日本書紀を編纂し、聖徳太子を作り上げたことは、私も同じ考えです。ただ、過去のワークからは、実権を握る表の藤原氏と景教(ネストリウス派キリスト教)を伝えた裏の秦氏の組合せが存在していたと感じます。聖徳太子が厩(うまや)の前で生まれたとされることがイエス・キリストと重なるからです。

 

大山誠一氏の聖徳太子の人物像の形成に関係した「道慈」が気になりました。また、額田部氏(額田氏)の氏寺である「額安寺(がくあんじ)」、額安寺の傍にある「推古神社」もポイントだと思いました。道慈は、奈良時代の三論宗の僧侶です。大和国添下郡の出身で、俗姓は額田氏です。

 

702年(大宝2年)第八次遣唐使船で唐へ渡り、西明寺に住し三論に通じて、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれました。額安寺は、奈良県大和郡山市額田部寺町にある真言律宗の寺院で、山号は熊凝山(くまごりさん)、本尊は十一面観音です。

 

推古神社は、大和郡山市額田部北町にある神社で、主祭神は豊御食炊屋姫命 (とよみけかしぎやひめのみこと)とされます。ネット検索をして行き着いた《額安寺》には、推古天皇と道慈の深い関係、さらに薬師如来のことが書かれていました。

 

「この地は621年聖徳太子が熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を置いた旧地で、寺は大安寺の前身という。寺伝によると、推古天皇の額に悪性のできものができた時、薬師如来に祈って完治したのでそのお礼のため、この寺に薬師如来を安置し、額安寺と名付けたというが、額田部氏出身の道慈律師が寺院を建立、額田寺といった」と記されていました。

 

実は、大和郡山氏額田部北町の取引会社で懇意にしていた担当者の方が「薬師寺」という苗字の人でした。やはり道慈と何か関係していると感じました。額安寺と推古神社に、それぞれ光を降ろすと「いいです。光は入りました」と伴侶が伝えて来ました。

 

道慈の画像を観て御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「誰か家族にいない?」と伴侶が言いました。道慈の画像をよく見ると父方の祖父さんだと思いました。「あなたがエネルギー体として操っていた」と伝えられました。

 

過去世で道慈だった祖父さんをエネルギー体の私が操って、架空の人物としての聖徳太子を創作することで暗闇を広げていったようです。それ故に、巡礼の旅で法隆寺に光を降ろして沢山の鳳凰が解放されたのでした。最後に自分の過去世が統合するように光を降ろし、安堵の内に額田部のワークを終えました。(おわり)