意味不明な言葉の羅列である「東南アジア ODA利権 ブローカー 政商 インドネシア政府要人 酒、お食事、夜のもてなし デヴィ夫人 瀬島龍三」が記されていた《Wikipediaノート:中島慎三郎》から、まず「中島慎三郎」について調べていきました。
ウィキペディアによると、中島慎三郎(1919年-2011年)は、日本の通訳者、ASEANセンター代表、インドネシア料理店経営者で、本名は中島進八郎です。1938年(昭和13年)、東京府立実科工業高校(現・東京都立墨田工業高校)を卒業し、陸軍航空本部建築課へ勤務します。
1939年(昭和14年)、日本大学在学中に、徴兵で陸軍野砲兵第一連隊に入隊し、南支(中国南部)、フランス領インドシナ、中支(中国中部)、マレー半島等を転戦し、最終階級は上等兵です。戦後は、福田赳夫元首相の通訳を務め、東南アジア問題では様々な検索を行います。
東南アジアに広い人脈を持ち、1966年、ASEANセンターを設立し、主宰を務めます。事務所は、東京都港区にあるインドネシア料理店ビルの地下にありました。2011年(平成23年)11月23日、死去し、享年92歳でした。日本アセアンセンターは、ASEAN加盟国政府と日本国政府との協定によって1981年に設立された国際機関です。
正式名称は「東南アジア諸国連合貿易投資観光促進センター」といい、日本とASEAN諸国間の「貿易」「投資」「観光」という3分野における経済促進と、「人物交流」の促進を主な目的として活動しています。中島慎三郎は、ウィキペディアを見る限り、東南アジア諸国のODA利権の仕組構築に深く関係した工作員のような人物と感じます。
《Wikipediaノート:中島慎三郎》には、中島慎三郎について、「1965年9月に起きた親中国派によるクーデター「9月30日事件」後も米国はスカルノ続投支持の方針であったが、中島は藤原岩市(元F機関長)らとともにスカルノを排し、1966年(昭和41年)のスハルト政権誕生に力を尽くした。」、
「日本敗戦後、インドネシアにあった日本軍はインドネシア人へ武器を渡すことを連合国軍によって禁じられていたが、宮元静雄(元第16軍作戦参謀)らは膨大な数の武器がインドネシア側へ渡るよう密かに工作した。第16軍司令官は連合国軍によって処刑されたが、インドネシア人はこの武器で英軍、オランダ軍と戦い独立を勝ち取った。」、
「日本のODAインドネシア利権は最初は スカルノ=岸信介・木下商店ラインだったのがデヴィ夫人や小林楠男の活躍で スカルノ=岸信介・児玉誉士夫・東日貿易になり
クーデターでスカルノが失脚すると スハルト=福田赳夫ラインが形成され、今日に続くと。 で中島は自身のことをスハルト=福田ラインの人物だと誇示しているわけです。」と記されています。
《日本占領時期のインドネシア》には、第二次世界大戦中の1942年3月から1945年9月終戦にかけて、大日本帝国が占領した「蘭印」と通称される当時のオランダ領東インド(現在のインドネシア)について記述されています。
日本が大東亜戦争(太平洋戦争)を通じて、何故インドネシアなどアジアの植民地を拡大しようとしてきたのかが問題です。欧米の支配下にあったアジア諸国の独立を促すためという名目ですが、日本が「大東亜共栄圏」の構築を目指したのは、第一に松果体利権の拡大があったからだと感じます。
松果体利権は、地球において、古くから最高の秘密とされて来た支配者の利権です。現代のアドレノクロムを通じて利益を得る権利に繋がります。松果体利権の獲得と拡大は、歴史的に植民地を拡大させてきた欧米列強も同じだと思います。
大東亜戦争の敗戦後も、日本は植民地だったインドネシアにおいて、松果体利権の維持するために工作活動を続けて来ました。それが、戦後補償、ODA拠出に繋がり、利権を持つ権力者たちが真実の姿を隠して利益を分配するスキームを作って来たのです。
中島慎三郎の御魂が光に還るよう意図して光を降ろすと「いいです。工作員だった」と伴侶が伝えて来ました。やはり中島慎三郎は、日本の工作員でした。次に、「瀬島龍三」についての情報を得るためにネットで調べていきました。(つづく)