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昨日、「一関(いちのせき)のキーワードが来ているからワークをする必要があるかもしれない」と伴侶が伝えて来ました。「一関」は、岩手県の最南端に位置する市である一関市(いちのせきし)のことです。一関市は、過去のヒプノセラピーで「一関の謎の地」と伝えられて、日本にとっても重要な場所であることを記憶していました。

 

20176月に「奥州藤原氏」「中尊寺」「安倍氏」「清原氏」がポイントとして選んで一関を含む東北地方のワークを行っていました。ギアナ高地のワークでシリウス大艦隊と伝えられ、ギアナ高地に相当する日本の場所が一関市でした。

 

シリウスのエネルギーが封じられたと感じていましたが、その時はどの場所化は分かりませんでした。しかし、中尊寺金色堂にもある「ミイラ」がヒントになると思っていました。その後、20202月の宮沢賢治を起点としたワークから北上川を封じていた山々に光を降ろし、シリウスの龍神のような大きなエネルギーが解放されました。

 

封印されたというよりも隠された大事な光がこれだと思いました。一関市には、こうした経緯があり、今回、キーワードとして伝えられたのには、まだ何か探求すべきものがあると感じました。一関市のウィキペディアを読むと「俘囚(ふしゅう)」という知らない言葉がありました。

 

「平安後期まで俘囚の長として奥六郡を支配した安倍氏が一の関、二の関、三の関と砦を築いた事によるという」と記述されていました。俘囚(ふしゅう)とは、「陸奥・出羽の蝦夷(えみし)のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。」

 

「日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源がある。移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた大和と蝦夷の戦争で、大和へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものである。」

 

「移住させた目的としては、同族から裏切り者として、報復や侵略される危険性があったため、生命の安全と生活の安定化を望んだことが主な理由であり、公民意識から皇化に浴させようとした朝廷側の意図もある。俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除された。」

 

9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていた。朝廷は、897年(寛平9)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出した。これにより全国へ移配されていた俘囚は奥羽へ還住することとなった。」とありました。

 

渡来人で構成されるヤマト王権の支配下になった陸奥・出羽(東北地方6)の蝦夷の先住民を軍事面で利用するために全国に配置した後、再び、奥羽(東北地方6)へ送還したのです。この時点で、ヤマト王権は、支配下の蝦夷を松果体の収穫や摂取に利用していたと感じました。

 

さらに「奥羽俘囚」という語もありました。「陸奥・出羽にとどまった俘囚(奥羽俘囚)は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、租税を免除されていたと考えられている。彼らは陸奥・出羽の国衙から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。」

 

「俘囚たちは無税の条件を基盤に、事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになった。これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した出羽清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。」と記述されていました。

 

蝦夷がヤマト王権側の蝦夷と地元の蝦夷に分かれて、地元の蝦夷が交易で力をつけて、安倍氏、出羽清原氏、奥州藤原氏、津軽地方の安東氏のような有力な豪族となったのです。東北地方の蝦夷の起源は明確ではありません。

 

しかし、先住民のやまとびとが北回りの渡来人とアヌンナキによって純粋な闇にされた人々だと感じています。一関市を調べていくと岩手県一関市藤沢町にある「大籠(おおかご)キリシタン殉教公園」が目に入り、大籠キリシタン殉教公園の歴史について調べていきました。(つづく)